昨今、女性記者は珍しくなくなったが、女性支局長となると珍しいのではないか。それも郷里の岩手県の盛岡支局長だから驚きである。しかも、この女性は私が福岡支社長で赴任した時に始めて預かった編集部記者。京都大学を出た才媛、飯田裕美子さんといった。
もの珍しさもあるが、男社会だから女性の扱いには慣れていない。「どうするんだ?」と編集部長に聞いたら「男女差別はしません。県警本部に放り込んで、サツ回り記者として鍛えます」という。「京都大学ではヨット部だったといいますから、バリバリの心身健全でしょう」とも言った。
それが、ある日、「弱りました」といって編集部長が支社長室に駆け込んできた。「サツのデカ(刑事)にケツを撫でられて、口惜しい!といってデスクのところで泣いているのです」とホトホト困った様子だった。
「なにい・・・。ケツを撫でられたぐらいで、メソメソする様ではサツ記者として失格ではないか。デカの横面を引っ叩いてこなかったのか!」と大声をあげたら「シイ・・・」と口に手を当てる、部長もデスクも困ってシーンとなっているという、「そんな大声をあげて、飯田が辞めますと言ったらどうするのです」と編集部長に怒られた。まだセクハラがやかましくない時代のことである。
「なるほど・・・」。欠員になったら、補充するのが支社長の役目だが、その当てもない。私も心配になった。だが案ずるよりも産むは易し。ひと泣きしたら、サツ回り記者に戻って、シコシコ取材していると聞いてホッとした。支社で三年教育して、今度は支局で県警回りする頃には、たくましいサツ回り記者として育っていてくれた。博多から本社の局長に戻って、しばらくしたら飯田記者は社会部で活躍していると聞かされた。
もう三〇年近い昔の話である。
福岡支社は、それから毎年、女性の新人記者を迎えたが、やはり最初の女性記者には思いが残る。他の女性記者の名前は忘れたが、飯田記者の名前だけは今でも記憶に残る。
「先輩!お元気ですか」と今日、飯田記者から懐かしい声を聞いた。今や押しも押されもせぬ盛岡支局長。新人記者を預かって、鍛える管理職になっていた。「明後日には沢内村に行ってきます」と言った。不覚にも涙が滲んでくる。こちらは78歳の老人。感動すると涙腺がゆるむ老境にさしかっている。
聞いてみると盛岡の私の旧友とも付き合っているという。「山屋他人 ある海軍大将の生涯」「いわて人物ごよみ」の著者・藤井茂氏とも親しいそうだ。パーテイの席上で「いわて人物ごよみ」を貰って、パラパラと拾い読みしていたら、古沢元の名前を発見して「私の新人時代の上司のお父さんです」と藤井氏に告げたそうだ。藤井氏も奇縁に驚いただろう。
年譜作家・浦田敬三氏のことも知っていた。
沢内村(町村合併で西和賀町沢内になっている)に行って時間があったら、わが家の菩提寺・玉泉寺に行って古沢元・真喜夫婦作家の文学碑を見てきてよ、と注文をつけたところである。盛岡は雪が降ったそうだ。岩手山は冠雪に覆われているという。沢内村も雪に覆われているかもしれない。急に故郷に戻りたくなった。
明日には玉泉寺の全英大和尚に電話して「もしかしたら、共同初の女性支局長が訪れてくるかもしれない」と言ってやろう。一期でやめた高橋繁西和賀町長は文学仲間。後任の細井洋行町長も昔の友人。元副県知事の高橋洋介氏も親しい仲間である。
「来年の五月には西和賀町に行くので、その時には盛岡に寄るよ」と再会を約束して電話を切った。楽しみがひとつ増えたが、それまで生きているか神のみが知る。
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4510 故郷で女性の盛岡支局長の奇縁 古沢襄

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