小生、ひとさまの文章をあれこれ批評するのは、あまり好まない。言論、表現の自由を最大限に守るべき価値と考えたいというのがその大きな理由だが、ときに、これは見過ごせないというのがある。
で、この文章についても、いったいどうしたものかと悩んでしまった。まあ、めくじら立てずに放っておけよ、という声が頭の中にある一方で、これはやはりひとことあるべきだ、素通りできる問題ではない、という思いがついてまわる。
そういうときには、あとで後悔するから、書いてしまおう。以下の文章はどう読んでも噴飯ものとしかいえない。これほどのタチの悪い文章には、あまりお目にかからない。
大学院の講義で「悪文の見本」として使わせてもらった。ともあれ、記録の意味も込めて再掲しておこう。11月24日付産経1面左肩のコラム「ちょっと江戸まで」。筆者はあでやかな着物姿の写真がでているが、法政大学教授、田中優子氏である。見出しは「無駄とは何か」。以下、転載。
<<【 国の事業仕分けが始まった。際限なく富を求めるより、まずは節約、という考え方こそまっとうだ。「殿堂」を作ろうとしたり、国民全員に現金をばらまいたり、省庁のお金の使い方もチェックしないことに辟易(へきえき)していたから、民主党は地に足のついた党であることがわかってほっとした。
事業仕分けという手法は、非営利団体の構想日本(代表・加藤秀樹氏)が、すでに7年にわたって地方自治体で行ってきた活動である。その積み重ねがあるからこそ国の仕分けにすぐ着手できた。非営利団体の地道な活動が政府の重要な仕事を担い協力できる時代が、やっと来たのだ。政権交代がなければこのように迅速な実施や全面公開はあり得なかった。
質素倹約は江戸時代の価値観の柱だ。無駄(すたり)をなくすためには、それぞれの物や人の本来の力を生かしきることが必要だ。生かしきっていない状態を「もったいない」という。江戸時代の人々にとっての無駄とは、お金や時間をたくさん使うことではなく、人やものがもったいない状態に陥っていることなのである。単に「ケチ」になればいいわけではない。人や土地や物の個性や能力が社会に還元されるよう、その仕組みを作ることが「無駄を無くす」ことなのである。
しかし江戸時代に無駄がなかったかというと、そんなことはない。もっとも無駄が多かったのが、武士階級の内部だった。今で言えば官僚機構だ。村や町の治安や自治は村人や町人が中心になっていたから、藩士や幕臣は、能力と覇気のある者が少しいればそれで済んだ。しかし役職がやたら多く、逼迫(ひっぱく)した経済状態の割に人が多すぎるせいか、薄給で苦しむ武士も多かった。明治維新が中下級武士から起こったように、不満はそこに集中していたのである。
無駄はどうしても権力機構にためこまれるようだ。既得権や世襲や組織温存の欲求がそれを肥大化させる。お金が配分されても、それを社会のために有効に使う能力がなければお金が生きない。お金が生きているかどうか、外から検証しないとわからない。とりあえずは、配分された税金がどのように使われているのか説明する能力がないなら、予算を減らされても仕方ないだろう。「理解していただけなかった」という官僚のコメントは、無能力をさらしている。
税金は特権のためにではなく、平等を実現するために集められている。自立している人のためだけでなく、子供を筆頭に、一人で生きられない人たちのためにある。戦争をするためではなく、外交に力を入れて戦争を避けるために存在する。税金を払うのを惜しいとは思わない。無駄な使われ方をしているから腹が立つのだ。使い方を信頼できるならば増税があってもかまわないし、必要な増税は当たり前のことだろう。まずは、税金の使いかたを信頼したいのだ。
軍事行動は最大の環境汚染で、最大の無駄だ。思いやり予算や沖縄の米軍基地はないに越したことはない。本当に必要なのか、今こそ考えるチャンスだ。私は、米中関係と日中関係をしっかり築き上げるならば、アメリカにとっても日本にとっても、米軍基地は不要なものとなる、と思っている。米軍基地に必要なのは移転ではなく、縮小と仕分けなのだ。(たなか ゆうこ)】>>
田中氏がなにをどう書こうとかまわない。江戸文化の研究者としては名をなした方なのだから、ご自分の土俵で勝負して、ふだん縁遠い政治や安全保障の分野にまで入り込まないほうがいいのでは、とも思うが、言論の自由があるのだから、田中氏がこういう文章を発表されるのも大いに結構だ。
ただ、これを産経の、それも1面では読みたくない。言いたいのはその一点に尽きる。
<軍事行動は最大の環境汚染で、最大の無駄だ>
この独断と偏見。紋切型、問答無用の断定の仕方。こういう文章を書いてはだめですよ、と学生にとっては格好の教材になった。
それでも、田中氏がこういう文章を書く権利はとことん保障したい。言論の自由とはそういうものだ。
だが、産経がこれを掲載してはいけない。「産経が産経でなくなった日の記念すべき紙面」となってしまうことを恐れる。
現役時代であったら、知らない間にこの文章が掲載されたならば、編集局内で大立ち回りを演じたはずだ。絶対にこういう代物を掲載してはいけない。
なぜいけないのか、それ以上はいわずもがな、だ。なぜいけないのかが分からないなら、産経のこの日の編集責任者は新聞の世界から足を洗うことをすすめる。誰だか知らないが、「あなた」に産経の編集責任者をつとめる資格はない。
そこで、この文章のなんともいえない違和感。これはどこからくるのか。そこを考えると、結局はこういうことなのだろう。
つまりは、外交や安全保障の基本的思索が全くない人にありがちなのだが、米軍基地をなくせという主張は、戦争誘発論、もっといえば好戦主義と同じだということへの真摯な考察が欠けているということだ。
日本の安全保障はアメリカの核の傘を軸にした日米同盟に依存している。集団的自衛権の行使は容認されていないから、同盟国でありながら、アメリカが攻撃を受けても日本は助けにいかなくてもいい。逆に日本がやられたらアメリカが来援する。
そういう同盟は世界中に日米同盟だけである。日本はきわめて特殊な安保環境にあるのだ。専守防衛ということで、他国にまで行ける足の長い爆撃機や空母は持てない。
この軍事上の欠陥を補うために米軍に駐留してもらっているのである。
日本から米軍基地が出て行ってしまうと、東アジアの軍事バランスに重大な空白が生じる。これは周辺のよからぬことを考える国やテロ集団に対して、「カギを開けてあるから入りこみたければどうぞ」と言っていることと同じだ。
社民党の反基地思想もそうだ。かたちを変えた好戦主義であることを知ってか知らずか、口をぬぐっている。われこそは平和主義者だと声高に言うものほど、あやういのである。
平和と安定は、観念論では構築できない。外交、防衛、安保の絶えざる備え、蓄積がなければ、維持できない。田中優子氏の一文のおかしさは、そういった現実的な安保感覚がまったく欠落しているところにある。
この人がテレビのコメンテーターなのだという。浸透力の高いテレビで、こういう人が発言することの危険性をテレビ局はもっときちんと見据えるべきだろう。
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4534 これは戦争誘発論ではないか 花岡信昭

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