岩手県西和賀町の一点山玉泉寺に行くと「いろは香堂」という資料館に昭和の人民文庫に拠った作家たちの初版本が保存してある。その冊数は81冊。人民文庫は武田麟太郎が主宰したプロレタリア文学雑誌。高見順、新田潤、円地文子、田宮虎彦、渋川驍、上野壮夫、平林彪吾、古沢元、本庄陸男、井上友一郎、田村泰次郎、矢田津世子といった若き作家群が同人雑誌・人民文庫に執筆している。
全巻26冊揃いの人民文庫は復刻本が現れるまで”幻の書”といわれた。戦争中の爆撃、疎開などで消失して残ったのは渋川驍、古沢元蔵書の2巻しかなかったためである。古沢元蔵書の合本2冊は東京の日本近代文学館に寄託展示された。昭和45年のことである。
復刻本が出来たので平成11年になって日本近代文学館から返還され、一点山玉泉寺の資料館に人民文庫作家の初版本とともに保存されている。日本近代文学館の寄託契約書(昭和45年)と返還契約書(平成11年)も展示されている。
多くの作家は戦後、流行作家として華々しく登場している。田宮虎彦の「足摺岬」は文庫本にまでなった有名作だが、初期の「霧の中」「落城」などの歴史小説は文学史に残る名作である。日本近代文学館の初代理事長になった高見順の「故旧忘れ得べき」「如何なる星の下に」も初期の作品だが、昭和文学史上に燦然たる光を残した。
円地文子は国語学者・上田万年の次女だが、人民文庫に小説を書いていた。資料館には円地文子の初版本20冊が保存されている。女流作家では矢田津世子、大谷藤子、松田解子、小坂多喜子らが活躍した。いずれも武田麟太郎を文学の師と仰いだ作家群。
これらの作家たちの戦後の活躍が華々しかっただけに、初期の人民文庫時代の作家活動に関する研究が低調だった観が否めない。27人の人民文庫作家の研究書としては辻橋三郎の「人民文庫の姿勢」、大谷晃一の「評伝 武田麟太郎」など僅かである。
不朽の名作といわれた高見順の「昭和文学盛衰史」だったが、高見順は「人民文庫など私が関係した事柄についてはいささか過小評価がある」とあとがきで認めている。高見順は人民文庫をほとんど持っていなかった。人民文庫の廃刊をめぐって武田麟太郎と対立し、不仲となったことが影響したのではないか。
武田麟太郎を師と仰いだ無名の写真家がいた。東北の酒田から出た巨匠・土門拳である。毎晩のように武田麟太郎のところに訪れ、武田麟太郎や取り巻きの作家の写真を撮りまくっている、この無名時代の人物写真が11枚、一点山玉泉寺の資料館に展示されている。昭和21年3月31日に43歳で早逝した武田麟太郎の偲ぶ会があったが、土門拳は追悼のあいさつをしている。会が終わると、どこにもぶつけ様がない寂寞とした思いに駆られて、土門拳は早々と姿を消したと水上勉が回想していた。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
コメント