NHKも「我々はどこからきたのか」という番組を放映している。やはり最新の研究の結果、日本人のDNAサンプル取って、世界中のDNAと比較して、日本人のルーツを求めた末に、マンモスを追ってユーラシア大陸を横断してしまった民族が日本人のルーツと結論付けている。
さらに南方系は、中国福健省あたりの海岸周辺の民族が海を渡って直接入ってきたことがDNA鑑定で確かめられた。このグループは沖縄だけでなく、九州から一気に北上して近畿まで来ている。
DNA鑑定という新技術が採用されるまでは、狩猟を生業とする縄文人が朝鮮半島から稲作技術を備えた弥生人によって駆逐されて古代国家が成立したと単純に考えられてきた。
しかし韓国人は人種的に日本人とはかなり違った異人種であるという事が分かっている。少なくとも古代日本人のDNAとは一致しない。むしろ中国の揚子江以南の”江南”の人との一致点が多い。とくに九州にはこの傾向が顕著である。
”江南”の人たちは春秋戦国時代(紀元前770から同221)に楚、呉、越の国をつくったが、黄河流域を祖地とする中原の漢人からは、楚人は辺境の蛮族に過ぎないという扱いを受けている。楚人のことを漢人は”荊蛮”と称して卑しんだ歴史がある。
DNA鑑定を信じれば、この”江南”の人が朝鮮半島を伝わって、日本にやってきた可能性がある。辺境の蛮族といいながら、すでに高度の稲作文化を持っていて、鉄器を使用する人たちであった。もちろん長い年月を経た民族の移動だから、朝鮮半島に住む人たちとの混血があったのだろう。
それでは司馬遼太郎氏がいう朝鮮型の出雲美人との関係はどうなのであろうか。その謎は日本の神話や伝説に隠されていると私は思う。
古代出雲国については分からない部分が多い。というよりは意識的に消された歴史があるのではないか。考古学の発掘調査で、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)があったことが分かっている。また日本神話に出てくる話は大半が出雲国やその周辺のものが圧倒的に多い。
島根半島と朝鮮半島は300キロの距離しかない。朝鮮半島から稲作文化と青銅器を持った弥生人が対馬海流に乗って出雲に渡来して来たと容易に考えることが出来る。これが日本初の渡来民だったのではないか。そして縄文人を征服して出雲文化圏を作った。紀元前600年頃のことである。
出雲国風土記に「国引き」の記述がある。「新羅を引き寄せたときの綱は、神戸川河口付近の海岸丘陵地帯であり、綱をかけた杭は、出雲国と石見国との境の三瓶山で西の国境をなしている」・・・との記述は、「新羅から出雲へ多くの渡来人がやってきた」と理解される。古代出雲国と朝鮮の新羅が親密な関係にあったことは疑う余地がない。
出雲神話で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が高天原から追放された後、出雲に天降って八岐大蛇(やまたのおろち)退治をしたことが、記紀(古事記・日本書紀)に出てくる。日本書紀の一書第四では「素戔嗚尊は新羅に降りてから、その後で出雲の斐伊川上流に来た。」と述べている。神名の「スサ」は、荒れすさぶの意として嵐の神、暴風雨の神とする説がある。
邪馬台国が東征して造ったといわれる大和朝廷と出雲文化圏とは対立する運命にあったのではないか。すでに神話の世界では高天原にあった姉の天照大神が、粗暴な素戔嗚尊を怖れて天の岩屋に隠れてしまった事件を記述している。
突飛な推理かもしれないが、青銅器文化圏だった出雲国が、鉄器文化圏だった大和朝廷に滅ぼされたとみることも出来る。考古学上では青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)が発掘調査で明らかにされている。
東から西に二つの文化圏が存在したことは、鉄器を持った渡来民が青銅器を持った渡来民を征服したことを窺わせる。中国の魏志倭人伝は三世紀末の書だが、「東夷伝」の中で倭国全体で長期間にわたる「倭国大乱」が起こり、女王・卑弥呼によって騒乱が静まったと伝えている。
さらに突飛な推理になるが、新羅の強い影響を受けた出雲文化圏が長い争乱の歴史の中で滅亡したとしても、朝鮮型の出雲美人が残ったということが出来る。古代史は神話の世界だから、如何様にも推理を働かせることが可能である。下火となった邪馬台国論争も推理の世界の遊びといっては、言い過ぎなのだろうか。
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