4742 岩手民謡「沢内甚句」 渡部亮次郎

昔のNHKは記者でも、地元の民謡の2,3曲は覚えないと転勤させないといわれた。仙台で新人教育の1年を終えた私は、福島赴任が噂されたが、なぜか下り線で岩手県の盛岡放送局に発令された。
赴任してみると、ニュースや番組を制作する放送部は、瓦葺、平屋の離れで、些か驚いた。担当は農協、木炭協会などで、たまには市町村長や県会議員を相手に「雑談」に花を咲かせた。その中から、結構、ニュースが出た。北上山中に「ウラン」発見などもあった。
雑談は夜に及ぶ事しばしば、花柳界に繰り込んで唄う羽目になった。今と違って「カラオケ」は無い。自然、芸者さんに地元の民謡を口移しで習うのが常だった。「南部牛追い唄」や「外山(そとやま)節」「沢内甚句」などを習った。中でも「南部牛追い唄」は50年以上過ぎた今でも、鼻歌になって出るし、「外山節」もそうだ。
明治24年に盛岡市玉山区外川に宮内省の御料(馬)牧場が発足し、多くの馬が育成されたが、「外山節」はその時には草刈り作業の唄だった。
後に、東北民謡の父と仰がれる遠野(とおの)出身の武田忠一郎は星川万多蔵と2人で外山へ出かけ作業員の唄を聞き、横笛をあわせてこれを採譜した(昭和7年)。
昭和12年、忠一郎は民謡歌手大西玉子の協力を得て、この元唄を編曲、キングレコードから発売、これが人気を呼んで岩手県を代表する民謡となった。(『東北民謡の父 武田忠一郎伝』黒沢勉による)
■外山節
わたしゃ外山の
日陰のわらび
(ハイハイ)
誰も折らぬでほだ(木)となる
コラサーノ サンーサ
コラサーノ サンーサ
外山街道に 笠松名所
名所越えれば 行在所
あんこ行かねか
あの山越えて
わしと二人でわらびとり
わたしゃ外山の
野に咲く桔梗
折らば折らんせ今のうち
南部外山は 山中なれど
馬コ買うなら 外山に
■沢内甚句
西和賀町沢内は藩政時代、盛岡藩の隠し田の地であった。「沢内甚句」は飢饉の際に、庄屋の娘・よね(米)を藩に差し出し、年貢米減免の身代わりとした。その悲しみを唄った盆踊り唄。
「沢内三千石 お米(およね)の出どこ 桝で計らねで箕(身)で計る」
元は太鼓と手拍子だけで唄われる素朴な唄だったが、昭和の初めに三味線の伴奏付きでレコード発売されたことから全国に広がった。原曲は県北地方の「ナニャドヤラ」といわれ、低音から唄い始めるものと、中音、高音からのものという三つの様式があり、甚句の形式としても完璧な曲である。
ところで、東北民謡の父 武田忠一郎 は明治25(1892)年5月、遠野の士族の家に生まれた。父祖2代が教育者という厳格な家庭に育った。
県立遠野中学校(現在の遠野高等学校)に進み、明治43(1910)年に岩手師範学校(現在の岩手大学教育学部)を卒業後、釜石高等小学校を振り出しに県下各地で教員生活を送るが、大正5(1916)年、少年時代から興味をもっていた民謡とわらべ唄の本格的な研究のために東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に通い、同7(1918)年に卒業。
岩手に帰り、大槌女子職業学校をはじめ方々の女学校で教鞭をとるかたわら、東北各地を訪ねて採譜の仕事を続けた。
この間に同僚の教員・石垣きんと結婚し四人の子に恵まれるが、昭和8(1933)年に妻・きんが死去。のちに弟子の大西玉子(民謡歌手)と昭和14(1939)年に再婚。
昭和16(1941)年にNHK仙台中央放送局に嘱託として迎えられ、”民謡採譜編集業務”を担当し、戦時下の物資不足の中で昭和17(1942)年から『東北の民謡第一篇~岩手県の巻』の発刊を開始し、昭和37(1962)年までに『東北民謡集全8巻』を完成させた。また昭和30(1955)年には仙台市に我が国初の「東北民謡学校」を開設し、校長に就任した。
作曲家としても知られ、母校・遠野中学校の校歌をはじめ、展勝地小唄や松尾鉱山小唄など県内外の民謡を作曲、「外山節」を編曲してヒットさせた。
多年にわたる功績に対し帝国教育会長賞、日本放送協会長賞、日本民謡文化賞などが贈られ、昭和44(1969)年には勲5等瑞宝章を受章した。晩年は仙台市の自宅で「太鼓教本」の編集に取り組んだが、昭和45(1970)年12月、82歳で生涯を終えた。
長女の安藤澄子は父の教えを受けて岩手の弦楽教育のために尽くした。末娘、真木は民謡歌手原田直之に嫁し、姉の武田歌子と共に民謡の指導にあたっている。
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