4883 ミッキー安川、ナイスガイだった 岩見隆夫

訃報が多い。お付き合いはなくても名前を知っている人の死は寂しいものだ。先週は、プロ野球の巨人、阪神で投手として活躍した小林繁さん(五十七歳)が心不全で、やはり巨人投手だった桑田真澄さんの父、泰次さん(六十七歳)が火災の犠牲になった。
同じ日、黒ずくめの装いが目に残っているアングラ歌手、浅川マキさん(六十七歳)も急性心不全で去った。みなさん、古稀を前にして早すぎる。いまの七十歳は古来稀ではない。高齢者のなかでも前期に仕分けられているのだから。
翌日、ミッキー安川さん(七十六歳)の訃報には、えっ、と声をあげた。死など無縁のような精力的で頑丈な人だったのに、どうしたことだろう。昨秋、政治評論家の細川隆一郎さんを偲ぶ会で巡り合い、
「やあ、やあ」と握手して別れたのが最後になってしまった。
最近はテレビ画面などに登場することはなかったが、ラジオでは数本の番組を持ち、昼も夜も休日返上でしゃべりまくっていた。私もラジオ日本の〈ミッキー安川のずばり勝負〉という生番組に何度かゲスト出演したことがある。安川節はまさしく独特、一人だけの世界を作っていた。
やたら博識で、常識や一般論と違うことを、ズバリと言ってのける。それが妙に説得力があった。当方はぐっと詰まる。すると、
「あんたなんか専門家だから、別の見方があるんだろうけど、さあ、このへんでコマーシャルにいくか」と救出してくれる。
笑わせるのもうまかった。リスナーたちのゲラゲラ声が聞こえてきそうなきわどいギャグやジョークを連発した。気がついてみたら、安川さんのしゃべりが分量的には五分の四くらい、私なんか相槌係のようなものだ。訃報記事のなかには、
〈辛口コメントで活躍……〉の見出しもついていたが、辛口なんて単純なものではない。甘口も適度に織りまぜ、いつも調味料たっぷりのトークである。
公共電波を使って、あれほどだれはばかることなく、言いたい放題ぶち続けたパーソナリティーは、私の知る限り、日本中で安川さんだけだった。惜しいことである。あと十年くらいはしゃべってほしかった。
安川さんには特別の雰囲気があったように思う。アメリカのにおい、アメリカ自由主義への憧れといったほうがいいかもしれない。どの訃報記事にも、
〈横浜市生まれ。高校卒業後渡米し、さまざまなアルバイトをした後に帰国。貿易会社勤務を経て、日劇ミュージックホールでコメディアンとしてデビューした。……〉と渡米経験の記述があったが、それが安川さんのドラマチック人生の原点になったのではなかろうか。
◇昭和ひとケタの風来坊 体に米国、土着型国際人
一九八〇年、四十七歳の時、安川さんは『ふうらい坊留学記』(サンケイ出版)を刊行した。十八歳の渡米から随分年月がたっているが、実は帰国後に同じ題名の本を出し、文庫本にもなったが、その後、
「子どもにも読ませてやりたい」などの便りがかつての読者から絶えず、再版したものだ。これがベストセラーになった。
以前に私もいただき、一気に読んだが、まるで活劇を見るような面白さだった。安川さんもまえがきで、
〈その四年間、私はアメリカの国内を転々し、小学校から大学院まで学び、モーレツにアルバイトし、派手にケンカもし、秘かな恋をして、まるでノタウチ回るようにして生きた。だから、この本は私が力の限り生き抜いた体験談なのだ〉と書いているが、高校卒なのに、アメリカでは小学校から、というのがまずヘンである。次のようないきさつがあった。
渡米すると、安川さんはオハイオ州のシンシナティ大学に入学手続きをした。ところが、最初の経済学の講義で、大男の教授が日本人と知って矢のように質問を浴びせる。むろん、手も足も出ない。終業のベルが鳴ると教授が言った。
「高校生以下だな、みんなの迷惑だ」
次の文学の教室でも、教授は同じように質問攻めのあと、「学問の冒涜だ。ここは君が来るところではない」と宣告した。学生たちはみんな笑った。軽蔑の嘲笑だった。安川さんは涙をこぼす。一週間で大学を去った。
しかし、それにめげず、小学校に移り、四年生のクラスに入った。金髪の美人先生が紹介してくれたが、生徒の一人が質問した。
「先生、この人はなぜヘンな顔をしているのですか」
「彼は日本人だからです」と先生は答え、微笑んだという。安川さんはこの学校でスクールバスの運転手をして、一日二ドルもらった。同級生たちはノッポの異国人と次第に仲良しになり、人気者になっていく。
こんなことの連続だった。アルバイトは綿つみ、墓掘りから死体運搬まで何でもやった。辺境の諸州も放浪し、黒人、インディアン、メキシコ人たちと交わり、アメリカの最下層生活に溶け込んだのだ。だんだんアメリカが好きになる。
安川さんが船でアメリカに渡った一九五一年といえば、対日講和条約に調印した年だ。日本はようやく占領期を脱しかけていたが、まだ敗戦の傷跡が深く、翌年五月一日には〈血のメーデー事件〉が起きている。一方でパチンコが全国的に大流行し、日本人は活力を取り戻しつつあった。
そんななか、素直にアメリカにほれ込み、単身乗り込んでいった数少ない日本人の、安川さんは一人だったのだ。同時代にもう一人、作家の小田実さんがいる。五八年のフルブライト留学生で、六一年、やはり留学体験を綴った『何でも見てやろう』を出版、ベストセラーになった。
小田さんは東大卒のエリートだが、安川さんは風来坊を自称しているように、体にアメリカをしみ込ませているようなところがあった。土着型国際人とでも言えばいいのだろうか。昭和ひとケタ生まれのナイスガイたちが次々に消えていく。(サンデー毎日)
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