四年前の夏、「大津波で消えた十三湊文化」の雑文を書いたことがある。<<津軽・十三湖を訪れたいと思いながら果たせないでいる。十三湖・・・津軽人の太宰治は「「真珠貝を水に浮かべたような」と十三湖を表現している。中世、十三湖の開口部にある十三湊(とさみなと)が日本海の海運拠点として栄えていた。
安東船と称した保有船は約700艘、遠くロシア沿海州との交易で往復したり、国内各港にも物産を運んでいた。常時出港中の船は500艘ともいわれた。七百年前にさいはての津軽の地で、華麗な文化が花咲いていた。>>
この十三湊は興国元年(1340)八月の大津波で歴史の上から消えた。
東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)という歴史書がある。東日流(つがる)とは 今の青森県の津軽地方のこと。江戸時代に福島の三春領主・秋田氏によって書かれた本である。秋田氏は津軽の十三湊を本拠に威勢を誇った安東水軍の末裔でもある。
秋田氏は東北の名家なのだが、多くの名家といわれるものが、その祖先を天皇家に求めたり、その系譜を源平藤橘(源氏・平家・藤原・橘の諸家)に拠り所を置いたのに対して、神武天皇に反逆した長髄彦(ながすねひこ)の兄・安日(やすひ)王を開祖として、安倍貞任・宗任を中興の祖としている。
この安日王の名は、大和朝廷が編纂した日本書紀や古事記には出ないが、国立国会図書館の蔵書となった「諸家系図纂」所収の「藤崎系図」に「安日を祖として、奥州安倍氏に連なり、安倍氏滅亡後は貞任の次男・高星丸が逃れて津軽藤崎に行き、その子・堯恒が藤崎城に拠って安東太郎と称す」と由来が記されている。
「秋田家系図」では、安東堯恒から五十年余りは空白となっているが、安東太郎堯秀の頃、藤崎から津軽に移り、孫の安東太郎愛秀の時に十三湊に移住して城を構えた記述がある。このあたりは諸説があって定まっていない。
秋田家文書に「安倍貞季の築いた十三湊新城は秦の長城に比すべきものという」という”十三湊新城記”があるが、花園天皇の正和年間に築かれた城というのが定説となっている。十三湊新城記は秋田元子爵家の所蔵だったが、現在は東北大学の付属図書館の所蔵となった。
このあたりは姓氏家系大辞典の陸奥安倍氏族・安東氏裔の系図で「安倍貞任→高星丸→安東太郎堯恒→堯秀→愛秀→堯勢→貞季」と記されている。貞季に二人の子があって、長男が盛季、次男は鹿季といった。
弟の鹿季は出羽国秋田の湊を討ち取り、秋田城主となって、湊家とも上国家とも称した。「これを秋田太郎と称す」とある。兄の盛季は津軽にあって下国家と称したが、下国愛季の代になって両家は統合して秋田姓となったという。上国(湊)家の八代友季が病死、子なきによって下国愛季(ちかすえ)が秋田城介になった事情がある。
以上が津軽に発生した安東一族が蝦夷が島(北海道)を経て、秋田に定着した概略なのだが、男鹿・湊から檜山(現在の能代市)の地域で蝦夷系譜を固守した歴史ともいえる。それだけに文献資料が乏しいのだが、中世における東北北部でロマンに満ちた興亡の歴史として妖しい魅力がある。
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