東御市(旧北御牧村)に両羽(もろは)神社という神社がある。 下之城という地籍にあり官牧のあった御牧台地の西斜面にある。 この神社には、木造の船代と呼ばれる人の木像がありこの人物はダッタン人(渤海国人)だといわれている。
奈良時代の朝鮮半島には、新羅という国が栄えその北に渤海(ぼっかい)という国が隣国新羅に劣らず栄えていた。 新羅について知らない人はいないが、「渤海国」になるとほとんどの人が知らないのではないだろうか。
その理由について「渤海国の謎」の著者上田雄氏は、「およそ戦争とか、征服とか、ということに縁のない平和な国家であった・・・」、渤海国滅亡後「その跡地にその後数千年以上も国家というほどのものが続かなかった。」の2点をあげている。
このあまり知られていない渤海国人の木像が信濃国のこの地に古くから(年代不明・昔からある)ある。
それは、この人(渤海国人船代)か渤海国の関係者を敬い慕う同国人、またその人たちに影響を受けた地元の人がいなければ木像は存在しなかったことは明らかである。
渤海国は文徳天皇2年(698)ころ高句麗人の大祚榮が、高句麗を再興するために建国した国で当初「振」といった。713年唐の玄宋の時に渤海郡王となり国名も「渤海国」となり、約200年続き、延長4年(926)に隣国の契丹に滅ぼされた。
わが国(日本というよりも大和)と渤海国との交流は、渤海使の記録を見ると神亀4年(727)から30回を越え使節が来朝し、日本側からも15回以上の送使が渤海国に行っている。 来日の使節団は当初は武官が多くその後文官が多くなった。
大陸の先進的な武術、戦略は当時の東北蝦夷征討を目指す大和政権の武人である大伴氏にとっては得がたいものであった。
渤海国人の武官の一部は大伴氏に同行し蝦夷討伐に協力し、彼らは訪れる各地(信濃・甲斐国巨間郡・信濃国・武蔵野国高麗郡等)に住む高句麗系の人々と交流をもち中には、帰国しない者もいたと思われる。
8世紀の後半になると大伴氏の影響の強かった小県郡下は、中央の大伴氏の衰退とともに大伴氏に代わり大伴氏と関係の深い高句麗系の人々が大和政権の兵器(馬も含む)、食糧献上者や武人としてその地位を高めていった。
続日本紀によると延暦9年(790)3月に大蔵大輔藤原乙叡が信濃守(長官)に、平群清麻呂が介(次官)に任命されるなど信濃への藤原氏の進出が顕著になった。延暦10年(791)から延暦14年(795)の間、大伴弟麻呂、坂上田村麻呂(祖先は渡来人)は征夷征討を行っているが、このころの大伴氏は藤原氏に対し帰順的立場になっていた。
藤原氏政権下の貴族社会において渤海国の文官のもつ知識は貴族のあこがれるところであり濃密な交流がもたれた。小県も延暦14年(795)ころには、信濃介の殺害未遂による藤原氏との関係悪化も回復された。
この貴族社会においてその一員でもある滋野氏は延暦18年(799)滋野宿祢船白が日本側からの送使(朝貢した渤海国人を送る役目)として渡海している記録が類聚国史巻193にある。滋野氏は、渤海国人の通訳人として有力な武器等の調達地である小県との関係を持つようになりその後更に関係を深めていくことになる。
弘仁5年(814)滋野宿祢貞主と坂上今継が出雲に到着した渤海使の存問兼領渤海客使として派遣され、文華秀麗集の作品等からこの貞主が渤海国人との親密な交流があったことが窺われる。
延暦18年(799)に蝦夷征討で貢献した信濃国の高句麗氏族が姓氏を賜り帰化したが、特に高麗家継等の賜った「御井」の姓は天武天皇の産湯の井戸の呼称や古事記上では神の名にも使用され、その尊さから家継等は、時の政権に対し相当の貢献があり、また渤海国人や滋野氏の推挙があったものと思われる。
小県郡における滋野氏といえば、戦国期の混乱の中、菅平で御牧の管理をしていた滋野一族の真田氏が本家である海野氏を粛清し、自らを本家筋にしたて際の清和天皇系滋野氏をいう。
これは下克上の世の正当な発起を主張するための系図の偽作によるものである。これまで述べている滋野氏の遠祖(天孫)は天道根尊で楢原氏である。楢原東人の代に黄金を発見し朝廷に献上したことから、伊蘇志臣を賜り(続日本記) その後宿祢を賜った。
滋野宿祢については、佐伯有清著「新撰氏姓録の研究考証編第三P359に詳しいが、貞主の祖父は大学頭博士楢原東人で滋野宿祢家訳で父は家訳である。
「公卿補任」によるとその後、貞主らが朝臣の姓を賜ったのは、弘仁14年(823)正月とのことであるからそれ以前に登場する渤海国送使滋野宿祢船白は、宿祢が付いていることから東人・家訳・貞主の一族であることは確かで東人の子と推察する(望月町の旧家大草家の系図を参考にしてか?)郷土史家もいる。
これは滋野氏内で最も信濃に関係した人物が船白であったということである。渤海国人からの最新式の武具等の製造技術の伝授を受けることは、また地元女性との交流からその子孫を残すことにもなる。そして通訳として来た滋野氏の一族も海野郷の裕福な財力は貴族として見逃せないものであり後の滋野氏の当地の支配を見ても明白である。
郷土史家で東信地区の民俗を研究した箱山貴太郎先生の著書に両羽神社について調査した結果が掲載されているが、近世まで渤海国との交流時代を彷彿される舞姫の存在があった。
伝承は時代とともに薄れ当時の有力な渤海人の名はいつしか滋野氏の船白(渤海国関係書では船代と書かれてもいる)と同化し、木像は渤海国人船代と呼ばれるようになったと思われる。
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