日本に初めて砂糖が伝えられたのは,754 (天平勝宝6) 年に来朝した鑑真(がんじん)によってであるとされる。鑑真の第1次渡航の際の積荷の中に〈石蜜〉〈蔗糖〉の名が見えるためで,この石蜜を氷砂糖とする説が多い。
鑑真 688年(持統天皇2年ー763年6月25日(天平宝字7年5月6日))は、奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)
鎌倉時代に発した狂言《附子(ぶす)》で毒物と称して主人が壺に秘蔵していた〈黒うどんみりとして,うまさうなもの〉を砂糖だと知って,太郎冠者と次郎冠者が食べてしまう滑稽さには,当時の日本人と砂糖との関係が見事に描きしている。
近世初期の日本の砂糖は,中国・オランダ船が舶載するいわゆる唐砂糖だけで,幕府は初め350万斤(きん)に制限していたが,1715 (正徳5) 年には430万斤に増やした。
国産糖の初めは琉球(沖縄)で,1623年儀間真常(ぎましんじよう)が家人を福建(中国)に遣わして伝習させたのに始まるというが,事実は1392年福建からいわゆる36姓の唐人が帰化したときにもたらしたものらしい。
日本の製糖業は,国内の原料作物から砂糖を作る砂糖製造業と,外国から粗糖を輸入してそれを精製する砂糖精製業に分けられる。
現在では北海道でテンサイ(砂糖大根)が,沖縄,鹿児島でサトウキビが作られている。国産糖の生産量は73万t(1981砂糖年度,1981年10月~82年9月)で総需要量269万tの27・1%を占めている。
砂糖自給率は1975砂糖年度の15・6%から大幅に上昇している。これには,テンサイが北海道の,サトウキビがとくに沖縄の農業の基幹作物であるため,政府がこれらの生産を奨励していることがある。
国産糖保護のため,輸入される粗糖には高い関税や調整金が課されている。
国民1人当りの砂糖消費量は,1981砂糖年度で約23kgで,1970年代後半から減少ないし横ばい状態となっている。これには消費者の砂糖離れと競合商品の異性化糖の急増がその背景にある。
日本で,近代的な製糖業が始まったのは明治に入ってからである。1896年,東京に日本精製糖が設立された。この会社は,鈴木藤三郎が1883年に静岡に設立した,氷砂糖をつくる鈴木製糖所を継承したものである。
98年には渋沢栄一により日本精糖が大阪に設立されている。その後1906年には,日本精製糖が日本精糖を吸収合併する形で大日本製糖が誕生した。
しかし日本で本格的な近代的製糖業が始まったのは,日清戦争の結果,台湾が日本の領土となってからである。1900年には台湾製糖(現,台糖)が設立されている。
この台湾における製糖業は,植民地経営の主軸となり,大規模な奨励策をうけて生産能力は飛躍的に拡大し,40年代には産出量が年間150万t以上になり,国内消費量(120万t)を超え,完全な過剰生産になるまでに至った。
第2次大戦の敗戦とともに,台湾,南洋諸島などの植民地を返還するに及んで,日本の製糖業は外国から原料糖を輸入して精製するだけの砂糖精糖業として再出発することになった。
敗戦直後の1947‐48年にキューバ産の粗糖が,主食代替品として配給された。これを契機として,50年に政府が製糖業復活のため保護育成策に乗り出したため,日本各地に製糖会社がつくられた。
原料糖の輸入が自由化されたのは1963(昭和38)年、東京オリンピックの前年だった。(平凡社「世界大百科事典」)
世界の砂糖の生産量は増加しており、1980年代には年1億トン前後であったものが2000年代には年1・4―1・5億トン程度になっている。全生産量のうち約30%が貿易で取引される。
生産量の内訳は、サトウキビによるものが約70%、テンサイによるものが約30%である。
サトウキビからの砂糖の主要生産国は、ブラジル、インド、中国などであるが、ブラジルは中国の約3倍の生産量、インドは中国の約2倍の生産量である。テンサイからの砂糖の主要生産国は、EU各国(ドイツ・フランス他)、アメリカ合衆国、ロシアである。
砂糖の日本国内消費・生産は、1995―2004年度の10年間平均(1995年10月―2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%:輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である。
年毎の動向を見ると、総消費量は減少してきたが下げ止まっている状態である。国産量は微増傾向にあるが、それは主にテンサイ糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にある。
サトウキビは、沖縄県や鹿児島県といった地域で、テンサイは北海道で主に生産されている。(「ウィキペディア」)
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4935 日本人にとっての砂糖 渡部亮次郎

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