4999 指揮権発動って何 渡部亮次郎

昭和29(1954)年4月、大学に合格して上京した。18歳だったが、テレビはまだ周囲に無かったし、携帯ラジオはまだ売ってなかった。下宿料込み「1万円」の仕送りであったから、新聞も買わなかった。
それなのに昭電疑獄事件を知り、自由党幹事長佐藤栄作の逮捕逃れに「法務大臣の指揮権発動」などという大時代的な言葉を頭にとどめたのは、都電の中での大人の会話を聞いたからであろう。当時、東京都内では23区を中心に路上を複線の電車が走っており、マイカーは走ってなかった。
長じて NHKの政治記者になり、総理大臣に上り詰めた佐藤栄作を真近に見る立場になったとき、突然「指揮権発動」と言う言葉が頭に浮かんできて、なんだか佐藤に敵意を感じたものだ。子供心に「卑怯」と言う印象が刻まれていたのだろう。
佐藤に対面してからも既に46年の年月が去り、私は74歳になった。そのとき、久しぶりに「指揮権発動」を耳にした。独裁者小澤一郎を巡ってのことである。
佐藤は小澤の師匠たる田中角栄の親分だったのだから、指揮権発動はこの人たちによくよく縁のある言葉である。
造船疑獄(ぞうせんぎごく)は計画造船における利子軽減のための「外航船建造利子補給法」制定請願をめぐる贈収賄事件。1954年1月に強制捜査が開始された。政界・財界・官僚の被疑者多数が逮捕され、当時の吉田茂内閣が倒れる発端となった事件である。
東京地方検察庁特別捜査部による海運、造船業界幹部の逮捕から始まった捜査は政界・官僚におよび、有田二郎ら国会議員4人の逮捕などを経てさらに発展する気配をみせた。
1954年4月20日、検察庁は当時与党自由党幹事長であった佐藤栄作を収賄容疑により逮捕する方針を決定した。
しかし、翌4月21日、犬養健法務大臣が検察庁法第14条による指揮権を発動し、佐藤藤佐(とうすけ)検事総長に逮捕中止と任意捜査を指示した。
この指揮権発動は佐藤栄作の突き上げにより、内閣総理大臣・吉田茂の意向を受けたものである。佐藤栄作はなかなか指揮権発動を行わない犬養を罷免して、新法相に指揮権発動させるよう吉田に要求したことから、結局犬養が指揮権発動を行った。犬養はその翌日辞任した。
4月30日には参議院本会議で指揮権発動に関する内閣警告決議が可決された。衆議院は9月6日に証人喚問をおこない、佐藤検事総長は「指揮権発動で捜査に支障が出た」と証言。
その後、衆議院は吉田を証人喚問議決をするも、吉田は病気を理由に拒否。その後、衆議院は拒否事由が不十分として議院証言法違反で吉田を告発するも、不起訴処分となった。
逮捕者は71名にのぼり、起訴された主要な被告のうち7名が無罪、14名が執行猶予付きの有罪判決を受けた。佐藤栄作は後に政治資金規正法違反で在宅起訴されたが、国連加盟恩赦で免訴となった。
逮捕こそ免れたものの、後の総理大臣の佐藤に逮捕状が出された事で、敗戦後の日本政治史の一大汚点と考える向きもいるが、また、吉田内閣を打倒し鳩山一郎・岸信介らのいわゆる逆コース政治家に再登場の道を開くために仕組まれた帝人事件同様の検察ファッショの例に過ぎないという見方もある。
そもそも、起訴する権限を独占している検察官を選挙による民主主義を基盤とする内閣の一員である法務大臣がチェックする仕組みだった指揮権が佐藤ら一部の政治家を救うための手段に利用されてしまったのだ。
このため、制度の政治的正当性が完全に失われてしまい、日本の民主主義にとって手痛い失敗になったとする意見がある。このことが、現在の、政治が検察に関心を持つことさえもタブー視する状況につながったといわれている。
一方で、当時の検察側の井本臺吉、神谷尚男、栗本六郎の証言から、佐藤を起訴するだけの証拠がなかったので、佐藤の逮捕は無理筋と判断し、「名誉ある撤退」をするためあえて指揮権を発動させた検察側の策略だったという見方もある。
後に犬養は『文藝春秋』1960年5月号に、「指揮権発動により法務・検察幹部を軒並み引責辞任させ、意中の男を検事総長に据えようという某政治家と検察幹部の思惑があった」とする手記を寄せた。
1954年3月26日、社会党の中田吉雄がこの問題の追及時に、「今五つの『五せる』接待方法がある」「飲ませる・食わせる・いばらせる・握らせる・抱かせるであるが…」と発言し、一部で流行語化した。
果たして今回、東京地検が小澤逮捕の方針を決定と言う場面になったら、鳩山首相や、千葉法務大臣は如何なる判断に傾いただろうか。小澤が助かっても参院選挙で民主党敗北予想となったら、宇宙では誰と心中するだろうか。(文中敬称略)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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