宝永元年 甲申(キノエサル・・・1704年の記録)
①「改元有テ宝永トナル」 年号が代わって宝永になった。幕府の財政は厳しさを増す一方であったので、勘定奉行、荻原重秀を中心に財政の建て直しに懸命であった。貨幣改鋳し、幕府役人の整理などを実施していることから、財政改革をし豊かな年にするという意味からの改元であるように思われる。
②四月二十日 大地震があった。震度、被害等の記録はない。
③五月十六日 月蝕。 十一月一日 日蝕。
④大旱魃(かんばつ)「草井沢本」には、「ひがれ(干枯れ)になる。四十七日てり」とある。47日間の日照りであったので、田畑は渇き心配なことであった。
⑤米は「上作」であった。
⑥湯田の下前堰(用水路)が完成し、公認(原文には、「・・・・始めて上がる」と書かれているが、「上がる」は人々に知られ、代官所にも報告があったものと読み取り、「公認」とした)
⑦御代官 瀧澤三郎右エ門 多田仁右エ門
宝永二年 乙酉(キノトトリ・・・1705年の記録)
①「四月閏あり」
②九月月蝕。
③大旱魃。申(サル)年の去年と酉(トリ)年の今年、2年続けての旱魃で、このことを「申酉の日照り」と言い伝えている。「草井沢本」には、「さる、とり二年干枯れになる。三十八日てり」とある。作柄についての記録がない。不思議である。「不作」や「凶作」ではなかったように思われる。
④御代官 美濃部作右エ門 金田一久右エ門
宝永三年 丙戌(ヒノエイヌ・・・1706年の記録)
①九月十五日 月蝕。
②「この年 御代官の美濃部、金田一両人様にお願いして「権蔵(かりくら)」を立て御年貢米を収めた」と記されている。 「権蔵」の意味は、下巾本に「カリニ蔵ヲ立テ」と記されていることから「仮の蔵」である。本格的な蔵ではないが、年貢米を納めるに間に合う蔵という意味に解した。
なぜ、人々は仮の蔵を造ることを願い出たのか解らない。たぶん、これまでの年貢米の納める場所や方法が不便であったこと。また、米の収穫が多く収蔵に問題があったこと等が考えられる。
③「木村左一之助 御代官に来る。」(この記録の仕方はこれまでにない形である。御代官が名前の後に記されている)
宝永四年 丁亥(ヒノトイ・・・1707年の記録)
①二月十七日 土交じの雨が降った。(火山灰が雨とともに降ったと思われる) 下巾本には「土交ジリノ雪フル」とある。季節からすれば「雨」でなく「雪」と思われるが、雨雪という気象もあることから、どちらが正確な記録かという判断は無理であり、不可能である。
②三月八日 この日 三尺余り雪積もる。 1尺は33.3cmであるから、三尺は約1mである。これに風が吹いたら家に閉じこもるしかなかったに違いない。
③十一月二十三日より十二月八日まで、「伊豆」「駿河」「相模」の三カ国に砂が七、八尺(2mから3m近い)も降り積もったということである。(富士山の噴火によって火山灰が降った)
④駿河の国に宝永山出る。(富士山の噴火によってできた山)
⑤御代官 岩泉惣右エ門
宝永五年 戊子(ツチノエネ・・・1708年の記録)
①「正月 閏有り。」 お正月が2回もあったのだろうか。もし、あったとしたら子どもたちは喜んだにしても、困った親が多かったに違いない。
②この年は大雪が降った。十月中より大川(和賀川)が氷つき、川尻より「仙人かげの山口」(北上市の山口)まで続き、正月までこの氷を渡って行き来した。当時の和賀川の川幅や深さは分からないが、たいへんな雪、たいへんな寒さであったことが想像される。川にできた氷を渡って北上市の山口まで往来できたことは、便利であったに違いない。
③正月に洪水があって、川を渡るための舟が残らず流されてしまつた。
④御代官 設楽六郎右エ門
⑤六月 白い雁が渡ってきたが、八月下旬には見えなくなった。(この記録があるのは下巾本だけである)
宝永六年 己丑(ツチノトウシ・・・1709年の記録)
①この年 川尻の金山左平治という者が、御代官様が横領したことを訴えるための訴状を上げたところ、それが悪いと罪にされ、親子共成敗され斬られてしまつた。
武士が支配する社会では、武士役人の権力は絶対である。「論語」「四書五経」等を真に学んだ武士は悩むことがあつたかも知れないが、訴状の中身が正しく、事実であっても親子は断罪されたに違いない。権力は冷酷であり、残酷であったことは歴史を見ると分かる。金山という人は、意志も正義感も強かったに違いない。哀れに思えてならない。
②十二月十五日 寒九に大雨降り、洪水となり、川といわず陸といわず溢れ流れた。「寒九の雨」というのは、「二十四節気の一つ寒に入ってから九日目に降る雨」のことで、沢内地方にあっては、縁起がよいとされ、その年は豊作になると言われている。現在の暦では一月の中旬であるから、この時期雨が降るのはたいへん珍しいことである。
なお、冬、雪の中での洪水はたいへん恐いと言われている。雪の上を流れる水の速さは早く、低い所には遠慮なく流れ込む。家は流れ込み易く、馬屋が真っ先に水浸しになり、雪のため除水が難しく、後始末は困難を極めたという。
③この年の記録には、御代官の名前は記されていない。
宝永七年 庚寅(カノエトラ・・・1710年の記録)
①七月十五日 月蝕。
②八月閏有り。四日 大風吹く。 五日には大地震あり。(地震の記録があるのは、下巾本のみである)
③作柄は「半作」 (この記録があるのは、草井沢本のみである)
④御代官 馬場三之丞
⑤宝永八年には改元があって「正徳」となる。 (下巾本のみに記されている)
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5062 「沢内年代記」を読み解く(五) 高橋繁

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