5092 常識、または良識とルールの間   石岡荘十

1832号(2/27)で、皇室の政治利用の問題が論じられている。それで連想したのが、最早誰も論じなくなった“朝青龍追放事件“と、もうひとつオリンピック、スノーボード男子ハーフパイプの国母和広選手の”非常識な“服装問題である。
この3つのケースに共通するのは、「どこまでをルールで決めるべきか、あるいは「ルールでいちいち決めなくとも常識あるいは良識で判断すればそれでいいのではないか」、この2つの考え方の衝突だ。
少し振返ってみると、まず朝青龍事件。この問題については、本誌2/15に取り上げていただいた。
http://www.melma.com/backnumber_108241_4764199/ 「理由なき朝青龍の追放」
内容は、ニューヨーク在住の国際税務専門職・肥和野佳子氏の考え方を紹介したもので、肥和野氏は、相撲が国技であることを認めた上で、「だがしかし、相撲の国際化を目指すならそれなりのルールは必要なのではないか」と結論付けている。
私はこの考え方に賛意を表したが、これに関連して、特に「頂門に一針」ブログ版での論争を招いた。そこで、問題提起をしたものとして、「外国人力士に今後も門戸を開放する。この場合、細かいルールを作る。とりわけ罪と罰について、国際的な批判にも耐えられるようなルールを考えるべきではないか」という趣旨の提案をした。
http://www.melma.com/backnumber_108241_4770681/ 「朝青龍追放、相撲論議に一言」(2/21)
このケースで問題となったのは、横綱としての「品格」である。“朝青龍追放事件”は土俵外の暴力事件が直接の引き金となったとはいえ、彼の「品格」に「ノー」を突きつけた本当の理由として、多くの日本人の心の中にある判断基準、日本的な「常識」あるいは「良識」に不快感を与えたことが「まあ、仕方がないか」という結論を導いたことは、間違いないだろう。
そんなことを考えているときに起きたのが、国母選手の“事件”である。この報道に接して最初に持った感想は「ああ、またか」であった。
オリンピックの選手紹介のアナウンスをテレビで漏れ聞くと、選手はrepresent、つまり「国を代表する選手」として紹介される。その人物が、ズボンを下げた“腰パン”にアフリカンスタイルのヘア(ドレッドヘア)、小鼻に2つのピアス。
シャツをズボンの外にはみ出させただらしないスタイルで現れたのでは、日本人の行動規範である「常識」、「良識」をいたく傷つける。マスコミがこぞって批判するのは、“朝青龍事件“のまったく同じ思考パターンの延長線上にあるからだ。
最後にニューヨークに行ったのは、もう15年ほど前のことだが、このスタイルの黒人の若者をよく見かけた。若者だけではない。盲目の黒人歌手レイ・チャールスが始めて日本に紹介されたときもあのヘアースタイルだった。
若者は熱狂した。マスコミがこれを批判的に取り上げたことは無かった、と思う。それは彼が日本を代表したシンガーではなかったせいかと思ったが、これをまねて顔を真っ黒に塗った日本人コーラスグループが人気を博したこともあった。「品格」にかけると騒いだという話しは聞いたことが無い。
スポーツ界でも、大学バスケット選手のだらしないだぼだぼパンツ姿を見てたまげたのはもう大分前のことだ。これも黒人選手が活躍するアメリカンスタイルの真似だと思うが、日本でもいまや「常識」となった公認のユニフォームである。
オリンピック選手であるということだけで、あのスタイルが非難する理由をどう説明すべきなのか。どうしてもダメだというなら、JOCは、服装ルールを決めるべきではないのか。例えば、鼻ピアスは禁止、シャツはズボンの中へ、髪は7・3か五分刈り。ついでに記者会見では、「~です」「~ます」を使わないと連れて行かない、とか—。ただし、相撲では認めない大仰なガッツポーズも、オリンピックでは認める、と。
さて、これらのケースとくらべるのは畏れ多いことだが、皇室の政治利用をめぐる論争である。
政府(官房長官)は、公的行為に当たるか否かは「統一的ルールを設けることは現実的ではなく、個々の事例に則して判断する」と言ったそうだ。これに対して記者たちは、「ルールがないと天皇を政治利用する懸念が解消されないのではないか」と迫った、と報じられている。
こんな議論が交わされる直接のきっかけは、例の中国の偉いさんと天皇との会見の「1ヶ月ルール」をめぐる解釈なのだが、本心は、政権権力の皇室利用にここで歯止めをかけておきたいということだろう。マスコミのこの狙いについては、私も前述2つのケースとは違ってマスコミの懸念に賛同するものなのだが、さて、ルールでどこまで政権権力を縛ることが出来るのか。
天皇の国事行為、私的行為以外の全ての公的行為を想定・列挙し、これはイエス、これはノーとあらかじめ決めておくことが、現実の問題として可能なのか。ちなみに、戦後象徴天皇の公的行為を遡って検証して、すべて政治色ゼロだったと皇室関係者やマスコミは胸を張れるのか。政治利用の思惑がまったくなかった、と言えるだろうか。
法は、時代の常識や良識の変遷によって適切に決められ、変えられ、ルール化したものであるべきだ、と大学の法学部で教えられた。
3つのケースのうち前者2つでは、日本人の常識や良識、批判をする判断基準が問われている。国母くんは、帰国したとき、一瞬、“改悛”したように見えたが「最後まで自分のスタイルを通す」と言っているそうだ。
日本の衆議院議員は、英語で言うとrepresentativeだ。ルールにのっとって彼らに多数を許した有権者の常識、または良識の最大公約を示した存在であることは間違いない。政権をとった後の彼らの常識、良識が有権者のそれと合致したものかどうか、それが次の選挙で問われている。
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