永年、中国残留孤児の帰国を援け、帰国後の彼らに対する国としての補償を求めて活動してきた元朝日新聞記者・菅原幸助氏に、吉川英治賞(文化賞)が送られることが内定した。
この賞は優れた文学小説、並びに文化活動に取り組んだ人物や団体に贈賞する制度で、このたび受賞が内定した菅原幸助氏については、これまでにも何度かこのメルマガで紹介している。
最初にこの問題に触れたのは、2005年9月。是非、下記のその記事をお読みいただいた上で、読み進んでいただきたい。
http://www.melma.com/backnumber_108241_2280065/ 「元朝日新聞記者の贖罪の日々」(「頂門の一針」164号 2005/9/11)
その後、
http://www.melma.com/backnumber_108241_2283690/ 「忘れられたか、中国残留孤児」(「頂門の一針」168号 2005/9/13)
ここから始まって、一番最近では
http://www.melma.com/backnumber_108241_4140962/ 「中国残留孤児訴訟費用1人20万円」(頂門の一針)1228号 2008/6/25)
このほかにも途中経過を何本か書いているが、要するに—、
関東軍憲兵隊員だった菅原氏は、敗戦後関東軍の高位高官の家族を護衛して、追いすがる民間日本人を蹴散らし蹴散らし、列車でいち早く中国を脱出。帰国後、朝日新聞記者へと転進するのだが、鎌倉支局長時代に中国残留孤児問題を知り、帰国途中に振り切った日本人開拓民の中に、残留孤児となった人がいたのではないかと思い悩むようになる。これが動機となってその支援に余生をかけて行く活動を始める。
身元引受人のいない残留孤児には自分の「菅原姓」を名乗らせて引き取り、国の償いを求め訴訟を起こす原動力となる。東京地裁で起こした裁判では敗訴。しかし安倍内閣時代“政治解決”を実現する。こうして金銭的には一定の成果を挙げるのだが、国は謝罪をしていない。菅原氏はいま孤児たちの名誉のためにも国としての正式謝罪を求める運動をつづけている。
昭和元年、山形の貧農に生まれ。昭和で数えた年と同じ、今年85歳である。
私とは札幌での記者駆け出しのとき(昭和30年代)からの付き合いである上、私自身も中国からの引揚者だということもあって、以来、支援活動のお手伝いをしている。
「中国に展開した関東軍が民間人を見捨てたことは無い」という趣旨の主張を本メルマガで読むことがあるが、そんな又聞きの虚構を書いている人に問いたい。「中国残留孤児や引揚者のナマの声を聞いたことがあるのか」と。敗戦後、関東軍に見放されて命からがら引揚げてきた私の一家の経験から言っても、どこかの国のように歴史を美化するための歪曲は慎むべきだと私は思う。わが一家の経験については、本メルマガ81号(2005/4/28)に書いた。
http://www.melma.com/backnumber_108241_450745/ 「やっぱり怖い、あの国」
菅原氏は言う。「自分はその関東軍の片棒を担いだ加害者だった。私以上の証人はいない。償いきれない」と。先日、吉川賞の事務局を務める講談社の担当者が鎌倉の菅原氏の自宅を訪れ、受賞内定を伝えた。正式には来月、記者会見を開いて発表の運びとなる。
表彰式は都内のホテルで4/9。今年はじめ、癌で片肺切除の手術を受けた菅原氏は目下リハビリ中だが、当日は車椅子ででも出席したいと今夜、私への電話で喜びを語った。
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