共同通信社の社長だった犬養康彦さんは「昭和20年の終戦の直後から、21年10月に安倍能成さんが院長に就任されるまで一年余りの間というのが、学習院の存続の危機の期間だったと思う。当時の山梨勝之進院長時代に、宮内大臣として石渡荘太郎さんという偉い先輩がいて、この石渡さんと山梨さんが中心になられて、学習院の歴史を護った」と回顧している。
私の友人で「学習院百年史」の編纂に加わった桑尾光太郎さんも同じ事を言った。桑尾さんと二人で東北旅行をしたことがある。「学習院は弘化四年(1847)に京都御所の前に建てられたんです」・・・「学習院百年史」の編纂に携わっただけにヤケに詳しい。
日露戦争の後に乃木希典大将の就職先のために明治天皇が学習院を作った程度にしか思っていなかった私だから、もっぱら聞き役に回った。学習院が東京に移転したのは明治二十一年(1888)。それより先に宮内省所轄の官立学校となっていた。
最初は男子学校だったが、明治三十九年(1906)に華族女学校と学習院を併合して、華族女学校を学習院女学部と改称している。その名の通り明治維新で顕官となった華族の子弟が通う学校だった。そして多くの人材を生んでいる。
それだけに敗戦後、学習院は存続の危機に立たされている。敗戦当時の学習院長は海軍大将だった山梨勝之進氏。ワシントン軍縮会議には加藤友三郎海軍大臣の随員として参加した海軍大佐で「日米海軍は戦うべからず」の信念の持ち主であった。
ロンドン会議の時には財部彪海軍大臣の下で海軍次官。海軍ハト派のことを「条約派」という。しかし「条約派」を弱腰と決めつける海軍タカ派「艦隊派」が、ロンドン会議を屈辱的な条約と攻撃して海軍部内の対立が激化した。
このために将来の海軍大臣の器と目されていた山梨勝之進氏は、喧嘩両成敗の形で昭和八年(1934)三月に予備役に編入されて表舞台から去った。「条約派」の旗頭と目されていた山梨勝之進大将の退役は痛手であった。ひとつには日本海大海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した東郷平八郎元帥が「艦隊派」の後ろ盾だった事情がある。
話は戻る。東北旅行に出た私と桑尾氏は岩手県西和賀町湯川の万鷹旅館に宿泊した。戦時中に学習院高等科の学生たちが、この旅館に疎開して、勤労動員に駆り出されたという。桑尾氏は学習院高等科から東京帝国大学に進学していた作家の三島由紀夫が、万鷹旅館にいる後輩にハガキを出していた。八月十六日の日付である。
「国は敗れたが、これからは文学の志を高くもって頑張ろう」という短い文章で、ハガキは学習院に保存資料として残っている。
私の仲間たちが加わって桑尾さんを囲む一夜の歓談となったが、隣の部屋を覗いた高橋繁さん(西和賀前町長)が「隣の部屋に海軍大将の掛け軸が下がっている。たいそうな達筆だよ」という。桑尾さんは、すかさず「誰の署名ですか」
すでにお互いにかなり酔っている。「さて、山だったか、川だったか」と繁さんは自信がない。「それは山梨勝之進大将ですよ」と桑尾さんが大声をあげる。皆、腰をあげて掛け軸を見にいった。「永安泰常和楽」と書かれた書には「為萬鷹舘 海軍大将山梨勝之進」と署名があった。おそらく山梨勝之進学習院長が疎開した高等科の学生たちを慰問するために訪れた時に乞われて書いたものであろう。
山梨勝之進学習院長は学習院を残すために孤軍奮闘する。OBたちを訪ねて私立学校として残すことを説いて回り、宮内大臣の石渡荘太郎さんも尽力した。敗戦直後の廃墟の中の話である。そして私立学校・学習院が存続して、学習院大学まで設立された。
華族の学校ではなくなったが、政財界などの有力者の子弟が集まっている。その学習院で校内を乱す「学級崩壊」が起こっているという。地下に眠る山梨勝之進学習院長らの苦労を思い浮かべるべきでないか。
<週刊誌「サンデー毎日」は09年10月4日号で、同年6月に1年生のクラスで男子児童が、後ろの席に座る女子児童の顔を鉛筆で傷つける“事件”があったと報じた。愛子さまと同じ2年生のクラスでも、授業中に先生の話を聞かずに騒ぐ児童が増え、授業が成立しない学級崩壊状態に。ひどい児童は勝手に立ち歩いたり、廊下にまで出て行って走り回ったりしていたという。
こうした状況を児童から聞いた保護者の代表は7月初旬、三浦芳雄科長(初等科の校長)に面会。学校側に改善策を求め、学校側が1学期の終業式当日にこのクラスだけの「緊急学級父母会」を開催する事態にまで発展した。
東園氏はこの日、取材陣に対し、学級崩壊について「残念ながら、あるクラスにかたよって起こっていたことはある。先生の手に余ってしまうクラスがあったようだ」と説明。その上で「愛子さまのクラスではない」とした。
対応策については「個別指導をすると、親の反発を買う可能性もある。乱暴な振る舞いをする児童にレッテルを張るのも教育上の問題がある」とその難しさを指摘した。
学習院には天皇陛下や皇太子さまをはじめ、歴代天皇家の大半が通学。しかし、最近では高円宮家の長女承子さまが早大に進学したほか、秋篠宮家の長女眞子さまが国際基督教大に、長男悠仁さまもお茶の水女子大付属幼稚園に4月から通う予定。“学習院離れ”が進んでいる。>
愛子さまの欠席理由にまで踏み込んだ宮内庁の異例の発表に対し、教育評論家や宮内庁関係者から5日、疑問や批判の声が相次いだ。「子ども同士の問題を、東宮職から公にすべきではない」との指摘のほか、結果的に「愛子さまに負担がかかる」との声も上がっている。
「大声を上げるなど学習院が説明したような行為は、学校では日常的にあること」と話すのは、子ども家庭教育フォーラムの富田富士也代表。愛子さまが学校に行けなくなった背景を「周囲からの注目でストレスを抱えていたのだろう」と分析。その上で「そっとして様子を見るべきだった。公表することで周囲の子供が受けるショックは大きく、犯人捜しが始まる」と学校現場への影響を懸念する。
尾木直樹法政大教授(臨床教育学)は「親が守るという姿勢を見せることは大切で、ご夫妻が心配するのは当然」と一定の理解を示す一方で「愛子さまがどうすれば学校に戻れるかを考慮した危機管理でなければならなかった」と指摘した。
この問題はすでにインターネット上の掲示板で炎上するなどしており、尾木氏は「男子児童が退学せざるを得ない可能性もある。“自分のせいで退学になった子がいるんだ”と、愛子さまに余計に重荷を背負わせてしまうことになりかねない」と危ぐ。宮内庁に対しては「発表しなければこんな難しいことにはならなかった。学校に圧力をかけて沈静化させようという意図が透けて見える」と批判。学習院には「公立小学校ならよくある日常的なことだが、選抜された児童が入ってくる学習院には今まで男子の乱暴な行為がなかったのだと思う」と述べ、不慣れな事態に陥ったミスとした。
静岡福祉大の小田部雄次教授(日本近現代史)は「皇族も一般の子供の中で強く育てるために学校に通わせているはず。愛子さまとご夫妻は、こうした問題への対処も含め乗り越えていく必要があるのではないか」と述べた。
一方、天皇、皇后両陛下に長く仕えた側近の1人は「子供は“皇族だから”と意識しないし、先生が配慮すると余計反発する。お子さま方がいたずらされることはどの時代にもあった」と明かす。その上で「大夫が独断で公表するはずはなく、皇太子ご夫妻の心配を酌んだのだろうが、発表するなんて…」と驚きを隠せない様子で話した。
宮内庁のある幹部も「子供同士で解決するべき問題。東宮職だけでなく、記者会見する学校の対応も異様だ」と首をかしげた。(スポニチ)>
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
5130 学習院廃校を救った山梨勝之進学習院長 古沢襄

コメント