5142 「沢内年代記」を読み解く(八)  高橋繁

享保十二年 丁未(ヒノトヒツジ・・・1727年の記録) 
①五月は 閏月であった。
②五月二十日 洪水。この洪水は、和賀川の支流である沢々から流れ出る小川だけであった。和賀川の本流は洪水にならなかった。現在の「ゲリラ豪雨」、部分的な大雨による洪水のように思われる。
③御代官 横沢武次右エ門 澤田十右エ門
享保十三年 戊申(ツチノエサル・・・1728年の記録)
①七月二十五日より二十八日まで洪水。川尻では馬二十四頭と家が十一戸が流された。沢内ばかりではなく、山口(北上市の山口)から仙台藩までの洪水であった。
昔、「白髭水(シラヒゲミズ)」と呼ばれた大洪水(水害)が有ったが、それから180年以来の大洪水ということである。《注:「白髭水シラヒゲミズ」について、南部藩の歴史資料である「内史略」には「寛文二年(1662年)九月大洪水、白髭水と言う」と記されている。「沢内年代記」の享保13年の記録にある、白髭水は寛文以前の白髭水ということになる。
180年前ですから室町時代、天文十七年(1548年)の白髭水ということになる。大洪水をどうして「白髭水」というのか解らない。識者の話では「洪水・大水」の流れる様子が「白髭」に似ているからではないかという。「白髭大明神」の何らかの力がもたらした洪水としか考えられない大水であったと思われる。》
この洪水による被害は、馬24頭と家11戸の流失である。馬は現在の耕運機、トラック、乗用車堆肥生産を兼ねた農家の必需財産であった。農家には2頭以上の馬が飼われているのが普通であった。しかも人と同じ屋根の下で大事に飼われていたのであるから、家もろとも流されたことになる。人は洪水から逃れることが精一杯で、馬や家財まで手が回らなかったに違いない。
②この年、上野々地域は小田島喜兵衛様(代官所の役人か)の計画によって、野々村此面様、岩泉太次右エ門様の二人の領地になっている分の管理者に川尻の助右エ門、久三郎が任命された。
③湯川から用水路を造り、開田した。米五十石余り(1石は1升の100倍、重さにして約150kg)が収穫できるようになった。
④御代官 栃内金左エ門 野沢与左エ門
享保十四年 己酉(ツチノトトリ・・・1729年の記録)
①正月十六日月蝕。 九月 閏有り。
②この年まで、暦の二十四節気は下段にあったのが、上段にあげて記す。《注:二十四節気というのは、12の中気と12の節気を合わせた総称である。昔の暦では月日と季節を合わせるために、中気と節気を交互に配列した。その配列の仕方が、暦の閏月のように代わることがあった。この年から下段の配列から上段の配列に代わったということである。したがって、「貞享元年(1684年)の記録」『是より下段に入る』の私の解釈『下談。人々一般の話、話題も取り上げて記す』は間違っていたことになります。お詫びを申し上げ、訂正いただきますようお願いします。》
③「寸志金スンシキン」という名目で、「面役金ツラヤクキン」を納めるよう命じられた。「面役金」というのは「人頭税」のことである。「用語・南部盛岡藩辞典」には「享保12年10月7日百姓に賦課した人頭税である」「一人一ケ月20文づつ納めるようにした」税である。現在のお金で20文は1000円であるから、ずいぶん高額な税金である。この後、「百姓一揆」の本になる税でもある。
④御代官 煙山十右エ門 中嶋三右エ門
享保十五年 庚戌(カノエイヌ・・・1730年の記録) 
①六月一日 日蝕。
②この年より「屋敷役」(家屋税)を納めるよう命じられた。「人頭税」「家屋税」と税金が課せられた住民はさぞ困ったに違いない。家屋税の税額は不明である。「用語・盛岡藩辞典」によれば、これまで不相応に広い宅地や家屋があったらしい。それは、無税であったからで、それに制限を加える必要があったとある。いずれにせよ、藩財政は貧窮していたことは確かである。
③御代官 戸来源右エ門
享保十六年 辛亥(カノトイ・・・1731年の記録) 
①十月十二日 夜 新町大火。 「新町大火」とあるだけで、火事の原因、風の有無、火災被害の様子などの記録はない。沢内通り一番の大集落の火事、秋も終わりに近く寒さを迎える時期の火事であったから、災害は大きく、人々は困窮したに違いない。
②御代官 菊池三郎右エ門
享保十七年 壬子(ミズノエネ・・・1732年の記録)   
①五月 閏 有り。
②この年より甲子村(カッチムラ)の石膏(セッコウ)山が、自由に出入りできない「御留山」にされた。石膏は細かく粉砕し、水を使って微粒にし、乾燥して白色顔料として、焼いたものは陶磁器製造用の原型として使われた。その原料採集の山として保護する必要があったと思われる。今まで自由に山を利用してきた人々にとっては、迷惑そのものであったに違いない。
③御代官 奥村文平
享保十八年 癸丑(ミズノトウシ・・・1733年の記録)  
①六月二十日の夜は、朧月夜であった。上左草村(カミサソウムラ)の鍛冶、与兵衛は、夜道を湯田から帰ってきた。
樋ケ沢(トイガサワ)という所にさしかかると、身長が二尺(約・60cm)ばかりの童子(わらし・子ども)が髪はおかっぱに切り揃え、ふらふらと行く当ても無いように歩いている。与兵衛の前を先にいくのだが、不思議に思えてしかたがなかった。与兵衛は気をつけて月影を見ると、どうしても人の影には見えなかった。
これは化け物であるに違いないと、いきなり切りつけた。確かに手ごたえはあったのだが、姿形は見えなかった。次の朝、行って見ると、八寸余り(約25cm)の蟇蛙が、二つに切られていた。その頃、樋ケ沢には不思議なものが出るという噂があったが、この蟇蛙の仕業であったようである。
②御代官 澤田源右エ門
享保十九年 甲寅(キノエトラ・・・1734年の記録) 
①越中畑関所(南部藩と秋田藩境の関所)役人の次男、猿橋半三という人は大力で剛毅な人であった。この人は天狗より兵法を学んで伝えたいものだと、天狗が来るといわれる青倉山の下流清水沢大滝に通うことにした。
夜歩いて十二時に着き、それから二時まで、二時間滝に打たれ立行をした。七夜めのことであった。何者かは分からなかったが、半三の両肩を踏みつけ立った者がいた。半三は思わず、どうーっと倒れ座ってしまった。すると、両肩を踏み立った者は大声で笑い飛び去って行った。
それから半三は残念無念に思い、毎夜この滝に通った。三十日も通い、立行したがついにあの者は来ることがなかった。しかたなく立行は取り止めたという。
享保二十年 乙卯(キノトウ・・・1735年の記録) 
①三月 閏 有り。
②本内村(ほんないむら)、廻途村(まっとむら)の二つの橋が始めて掛かった。二つの村とも現在は湯田ダムに沈んでいる。
③丙辰の享保二十一年は年号が代わり、元文となる。《「歴史年表」によれば、この年幕府は米価下落防止のため最低価格を公定とある。》
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