5170 「越山会の女王」佐藤昭子さん死去 古沢襄

ひとつの時代が終わった。越山会の「女王」と呼ばれた佐藤昭子さんが亡くなった。同じ秘書として田中角栄元首相を支えた麓邦明氏、早坂茂三氏もすでに亡くなっている。この時代に第一線の政治記者として取材に明け暮れた私はむしろ田中政治に批判的だったが、麓氏は尊敬する先輩、早坂氏は仲の良い仲間だった。
その麓、早坂両氏に誘われて越山会を訪れたことがある。そこで佐藤昭子さんに会った。政界には「女王」といわれる陰の実力者が何人かいる。池田元首相、佐藤元首相の信頼が厚かった辻トシ子さんも、その一人。
華麗な雰囲気を持っている辻さんの印象があったので、田中派の議員から「ママ」と慕われていた佐藤さんも同じ印象を持っていたが、会った時の印象は面倒見のいいオバサン。これが「越山会の金庫番」なのかと奇異な感じすら持った。
この当時、佐藤さんと麓さんは、すでに対立していた。佐藤内閣の初期、田中幹事長の時代である。カネの力で多数派工作を目論む田中幹事長に対して、その行動力を買う麓さんは政策の田中に力を貸すつもりでいた。佐藤さんの目には麓、早坂両氏は”書生”と映ったのであろう。
田中氏の最大傑作といわれる「都市政策大綱」のまとめ役となった麓氏は、その後、秘書をやめて田中氏のもとを去った。佐藤さんとの確執が原因であった。その佐藤さんも田中氏の死後、娘の真紀子さんから越山会を追われた。
ひとつの権力を支えた人間模様なのだが、終わってみれば儚くも悲しい。それを間近で見てきただけに、人間の業の深さを感じてならない。
<佐藤 昭子(さとう あきこ、旧名:佐藤 昭、さとう あき、1928年 – 2010年3月11日)は、かつて田中角栄の秘書を務めた。政経調査会主宰。
新潟県柏崎市出身。1946年衆院選時に選挙活動をしていた田中と出会い、選挙活動を手伝う。新潟県立柏崎高等女学校を経て東京女子専門学校(現、東京家政大学)に進学するが中退。離婚を経て、1952年、田中角栄秘書となる。イトーピア平河町ビル内の田中の個人事務所にあって田中の政治団体・越山会の統括責任者などの要職を歴任。「越山会の金庫番」・「越山会の女王」と称された。一女あり(田中の子と云われているが、認知はされていない)。
1985年、田中が脳梗塞で倒れて政治生命を失うと娘の田中真紀子によって事務所は閉鎖。早坂茂三とともに田中事務所を解雇された。原因は真紀子と昭子側の根深い対立関係があったとされている。
自由民主党木曜クラブ(田中派)への影響力も強大であった。かつて田中派の中堅・若手議員であった橋本龍太郎・小渕恵三・羽田孜・小沢一郎らにとっては政界における姉貴分であり、所属党派が分かれた後も揃って「ママ」と呼んで慕った。(ウイキペデア)>
<田中角栄元首相の元秘書で、後援会・越山会の「女王」と呼ばれた佐藤昭子(さとう・あきこ)さんが11日、心不全で亡くなった。81歳。告別式は近親者で済ませた。
佐藤さんは1952年から田中元首相の秘書を務め、85年2月に元首相が脳梗塞(こうそく)で倒れた後、政治団体「政経調査会」を設立した。(読売)
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