元文元年 丙辰(ヒノエタツ・・・1736年)の記録
①御代官 毛馬内権左エ門 五月沢内にて病死。御代りとして照井多左エ門様お出でになる。葬儀等の後始末は、どうなされたものて゛あろうか。代官毛馬内様の遺体は、ご自宅に運ばれたのであろうか。ご自宅が盛岡にあったとすれば一日がかりのはずである。越中畑の関所役人の妻が亡くなった時には関所役宅の近くに葬ったと伝えられ、お墓もあったということである。当時は土葬がほとんどであったということであるから、あるいは代官所のある新町のどこかにお墓がああるかもしれない。
②「草井沢本」には、「元文元年になり、この年雪降らず。」と記されている。「雪降らず」という表記の意味は、文字通りに解せば「雪が降らない」ということになるが、西和賀地域一般には「雪が少ない」時にも「積雪がなかった」時にも使われる。おそらく、大変に雪が少なかったということと思われる。
元文二年 丁巳(ヒノトミ・・・1737年の記録)
①五月八日 雹(ひょう)が降り、大地白くなる。旧暦の五月八日は現在では六月初旬である。雹が大地を白くするほど降ったのであるから、芽を出した作物はズタズタに、草木の葉もボロボロになったに違い。「草井沢本」には、「不作。所によっては種がなくなった。」とある。
②八月より「金文金」(キンモンキン・キンブンキン?)となる。「金文金」の解釈が問題である。このような言葉は資料を探しても見当たらない。「これは、記録者が元文金と記そうとして、金文金としてしまった誤記であろう。」という先達に従うことにした。「八月より元文金になった。」ということである。元文元年に幕府は新しく銭座を認可し、貨幣の鋳直しをしている。そのお金がこの年の八月から使われるようになった。と解される。
③十一月 閏 であった。川尻上野々村が始めて村として公認された。
④この年「一切雪不降」とある。雪が降らなかったのである。「草井沢本」には「正月十六日に仙人峠(西和賀町と北上市の境の峻厳な峠道)を素わらじで越すことが出来た。」とある。旧暦の正月十六日は、例年であれば雪の最も多い時期である。雪道を歩くには、藁沓を履き、用心に「かんじき」(雪に深く抜からないように、藁沓の下に履く)を持っていくのが普通であった。この年は「わらじ」だけで峠が越せたのであるから、異状であった。
⑤御代官 上田六郎右エ門
⑥「草井沢本」には「この年、かまどかいし(破産者)が仙台(宮城県)仙北(秋田県)に行ってしまった。」と記されている。不作のため、この地では暮らせなかった人々は家族と共に、生きるため に他郷に行かざるを得なかった。その数はかなりの数であったに違いない。
元文三年 戊午(ツチノエウマ・・・1738年の記録)
①十二月十五日 月蝕。
②猿橋村の半三と桂子沢村(かつらごさわむら)の百姓久八の二人が、越中畑の関所役人に酒代を貸していたので、支払っていただきたいと申し上げたところ、「そんなことは有り得ない」と斬り殺されてしまった。原文は「慮外なりと言い立て切り殺す」とある。無残極まりないことがなされたわけである。
③「草井沢本」には「世の中よし。」とある。農作物の出来が良かったということである。
元文四年 己未(ツチノトヒツジ・・・1739年の記録)
①この年、小繋村(こつなぎむら)の孫作(まごさく)という者、大荒沢にある欅の如鱗(木材の目の模様が魚の鱗のように見える)一等材を盗伐した。その罪によつて御古人(山の見守り役)、御同心(今の警察官の役人)、孫作の三人は打ち首の刑を受けた。その首は代官所のある新町に運ばれ、「舛形」に七日間さらされた。
この如鱗の欅は、秋田から越えてきたものであると証明書を差し出した関所役人の猿橋勝左エ門は切腹を命ぜられた。越中畑から小繋までの集落にある問屋商人は皆、縄をかけられ逮捕された。御山守(山の管理役)春から秋まで手錠下ろされる。湯本村の村長、伊三兵衛も同じく手錠下ろされる。湯田村の喜左エ門は田名部(青森県下北)に追放された。
《欅盗伐事件は、村ぐるみで計画、実施された事件であることが分かる。関所役人、山の管理役、警察、村長、商店等々が皆有罪者として処分されている。一説には、この盗伐を計画させたのは黒沢尻の商人で、材木は岩谷堂箪笥で有名な岩谷堂の加工業者に売り渡そうしたものであるという。
気候不順が何年も続き、加えて税が厳しさを増した時代、西和賀の人々は起死回生を図り、実行したものであることがわかる。この欅は、樹齢数百年といわれた巨木で、たいへん珍しい「ちょうれん玉目」別名「阿弥陀目」という
美しい模様が根元から枝まで見られ、他国まで知られた名木であったと伝えられている。根元から30cmばかり上から二本に枝別れし、樹高は雲を突くばかりであったという。盗伐に参加した者は、地区民はもちろん沢内、遠くは秋田からもあり、その数およそ120名と伝えられている。
孫作以下この巨木に斧をいれたところ、不思議なことに四方に飛び散った木屑が、翌朝行って見ると切る前と同じように幹にくっついていたという。また、切り口からは真っ赤な樹液がしみ出でて気味悪がり中止を言う者もあつたという。
伐り倒すまで一週間かかったともいう。伐りだされた木は、長さ180cm(六尺)の材にして、75本も取れたと伝えられる。盗伐の罪を一身に引き受けた孫作は、当時34歳で、既に17歳の子どもがあったという。身長は約六尺(180cm)、背中巾は三尺(90cm)であった。「万一、盗伐が御上に知れても、私が責任を負うから、誰も知らぬ、存ぜぬで貫き通すこと」と堅く言い含めていたとも言われている。
地区民は、孫作の首を厚く葬り、地蔵様を建てて後世祀った。(「首切り地蔵」と呼んでいた)この 地蔵様は、湯田ダムの建設で水没するため、北上市に移転しましたが、昭和53年(1978年)「小繋」近くの「峠山」の地に祀られた。旧湯田町では昭和56年9月3日に有形文化財に指定している。毎年8月1日に「孫作地蔵尊祭り」を実施、孫作はじめ村を救おうとした人々の供養慰霊を行っている。孫作のご子孫は、現在水沢市に住んでおられる。》
②七月に雹が降った。
③犬の疫病が流行り、沢内中で生き残った犬は四匹だけであった。
④御代官 高橋要右エ門
⑤この年より、越中畑の御関所役人は盛岡より来ることになった。 宮沢長右エ門 十一月からは根森角左エ門
元文五年 庚申(カノエサル・・・1740年の記録)
①七月 閏 有り。
②世の中、中の上なり。米をはじめ農作物の出来具合は、平年を中とすればそれよりは良いできであつた。
③十一月一日 日蝕。
④正月 越中畑関所役人 藤根清右エ門、 三月 波岡吉右エ門、 四月 四ノ戸治右エ門、六月 村木藤兵衛、 七月 七ノ戸忠右エ門、九月 松井権右エ門、 十月 横井三郎、 十二月 山田源右エ門。欅盗伐事件によって、関所管理が厳しくなったと思われる。
⑤御代官 蠅田甚太夫
⑥改元(年号が代わる)があって、「寛保」となる。御代官 兼子文五郎、 井上五左エ門。実際には、「寛保」になつていないのに、このような記録があるのはなぜか。前もって改元の知らせがあつたものであろうか。なお、この記録が記されているのは、代官所所在地に近い「下巾本」のみである。
寛保元年 辛酉(カノトトリ・・・1741年の記録)
①御代官 椎名傳右エ門
②越中畑御番人 正月 高杉市左エ門、 三月 中村與市右エ門、 四月 沖孫太夫、六月 橘文太夫、 七月 鈴木惣兵衛、 九月 中野甚左エ門 藤根清右エ門、十二月 長尾儀左エ門
寛保二年 壬戌(ミズノエイヌ・・・1742年の記録)
①五月一日 大きな日蝕があつた。天地が暗闇になつた。星が出て、ヨタカが飛び回った。鳥はどれも止まり木を失ったように静まった。牛馬等の家畜は行き場を失いおろおろするばかりであった。人はみな驚き、生きた心地がなかった。
「皆既蝕」に違いないのだが、年表を探しても、このような日蝕の記録を見出すことはできなかった。一生に一、二回めぐり会えるかどうかという「皆既食」であれば、人々の驚きははかり知れないものだったに違いない。予備知識があればこそ平気でいられるわけで、呪術が人心に大きくかかわっていた時代であれば、この記録は決して大げさではないと思われる。
②越中畑御番人 正月 又重安左エ門、 三月 寺本惣左エ門、 四月 久慈弥二右エ門、六月 花輪五平治、 八月 箱崎此右エ門、 十月 巳ノ上安左エ門、十二月五日より江刺家形左エ門、このお役人より六ケ月代わりとなる。
③御代官 浜田庄太夫
④二月一日の朝、朝日様が三体出る。この夜「不思議ノ星」出る。自然現象は様々、無限にあるのだから、このような現象が見られても不思議ではない。それにしても、朝日三体はどのように見られたか。不思議の星とはどんな星か。知りたいものだと思う。他地方においては、このような現象は見られなかったものであったろうか。
⑤六月十三日 明星の星が、北と南に三つ出た。この現象もよく分からない現象である。
⑥正月一ヶ月 彗星が東より出て南の方へ光り去った。
⑦六月十三日 地震。
⑧十一月十四日 灰が降って、雪が黒くなった。 年表には火山噴火はなかつた。大陸から来る黄砂の類だろうか。
⑨この年から鶏が羽ばたきしなくなった。
⑩加藤八兵衛 御給人となった(役人として採用された)。加藤八兵衛は新町の住民であった。代官所の役人として地元採用になった最初である。《年表によれば、関東地方に大水害があったとある。》
寛保三年 癸亥(ミズノトイ・・・1743年の記録)
①四月 閏 あり。四月十五日 月蝕。
②二月三十日は彼岸(春分の日)であった。この日から田に出て働く。春分の日に田に出て働くというのは、この時代考えられない。まだ雪が積もっていて、田畑は見えないはずである。暖冬であったとしか思われない。暖冬が記録されていないことも不思議である。
③米の収穫は平年並みであつた。畑作物は不作であつた。畑作物でも菜種だけは平年なみであつた。
④四月十八日 越中畑御番人 鈴木兵左エ門、 十月十八日 上明門七
⑤御代官 斗内萬。
⑥改元ありて「延享」となる。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
5174 「沢内年代記」を読み解く(九) 高橋繁

コメント