5216 アメリカ人の二進法的思考 前田正晶

アメリカ人の思考体系が「二進法的」であると指摘した人が、私以外にいるか否かは知りません。私がこれを初めて公式の場で指摘したのは、1990年4月だったと記憶します。
では、ここで何故「二進法説」を唱えるに至ったかを、簡単に説明しておきます。それは、アメリカ人の中で働いていると、屡々意見の食い違いや物事の判断が極端に分かれることがあるだけではなく、「何でそこまで短絡的で、しかもこちらの意表をつく考え方をするのか」と悩ませられることが多かったからです。
その思考体系の大きな違いが何処から来るのかと思い悩んだ結果が、「コンピュータと同じような『イェスかノーか』でしか考えずに、次々に論旨を展開していくところにあるのではないか」と思うに至ったのです。
そこで、会議の席上簡単な案件なのに意見の食い違いが大きかった者に、「君はもしかして二者択一で物事を判断するか、考えているのではないか」と確認して見ました。すると暫く考え込んだ後に「なるほど、その通りだ」となり、こちらも漸く納得できた次第でした。
この点は、その後何人かに確かめて見た結果でも、同様な結論に達したので、初めて社内で正式に「二進法的思考体系と日本式の違い」を声高に唱えて、彼らの説得材料に使い始めたのです。
弁解めいて、私の好むところではありませんが、私以外にこの説を唱えている方がおられたかどうかなどは全く考えたことすらありませんでしたし、その方法など知る由もありませんでした。
そこで、これをアメリカ本社で「日米企業社会における文化の違い」という大プリゼンテーションを事業部全員に行った際に、思考体系の違いとして論じました。すなわち、
「思考体系では、片やアメリカ人は「二進法的」=”binary scale”で妥協を許さず、一方の我が国のものは「八百万の神」式で柔軟と、分類したのです。言うなれば、片や一神教で、我が方が多神教なのです。同時に彼らは「単細胞」ですから、「神が存在する」ことは議論の対象にすらならない信仰で、屈託がないとも言えます。換言すれば「存在する」か「存在しないか」の二つしかなく、中間というか妥協点が存在しない」というものです。
二進法だからこその、経営上の判断の場合を例に挙げてみます。もし、事前に新規投資する事業は“「総投下資本利益率」(=Return on Net Asset →RONA)15%を開始後3年以内に達成できなければ撤退”と決めてあれば、3年目の終わりに極端な例で14.9%であれば、「決めたことだから」と簡単に止めるか、売り払ってしまうような決断をするのです。
これは解りやすくするために、いささか極論的に表現してありますが、中間の努力というかプロセスを見るのではなく、飽くまでも「結果」で判断するという二つに一つの判断なのです。それを中間の過程における努力を評価する日本的思考から見れば「厳しい」となるのでしょうが、彼らにとってはごく普通の判断なのです。
だから、彼らは「二つの異なる意見を足して2で割る」とか「双方の考えが違えば妥協点を探って」とはならないのです。そこで、私は彼らが「すでに合意に達していた自公政権時代の決定に従うのが当然」としか考えないので、それを「ゼロベース」だかにしてやり直すという八百万の神式な鳩山内閣の手法に苛立つのでしょう。
しかし、アメリカの経営的判断の場合に忘れては、と言うか看過できないのが、「二つに一つ」で突撃するといういわば玉砕するのではなく、悪い結果になった場合に備えて、”Contingency plan”と称するいわば「二の矢」である代案を用意して話し合いの場に臨んでくることです。
すなわち、「この提案をのんで貰えなければ、御社との関係もこれで終わり」というのではなく、安全弁的な代案が用意されていることです。これは妥協案ではなく、先方にとって受け入れやすいものもあれば、全く別個の彼らにとって次善の案であることもあるというものです。
まさか、アメリカがこの程度の彼我の思考体系の違いを知らないとは思いません。だが、彼らの思考体系からしても、またこれまでの経緯からしても、アメリカ政府が鳩山内閣に譲歩する理由がないでしょう。
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