5223 「沢内年代記」を読み解く(十)  高橋繁

延享元年 甲子(キノエネ・・・1744年の記録)
①この年から節気を表す暦の組み合わせは、「上段」の組み合わせに従う。
②四月にになり、鶏が羽ばたきするようになった。沢内通りの全ての鶏のことを指しているのだろうか。1742年(寛保2年)の記録に「この年より鶏羽ばたきなし。」とあつたから、それから3年目になって、鶏が羽ばたくということであるから、鶏にとって異常な年が続いたことになる。
③和賀川の鮎が多く、簗(魚を獲るために川の瀬に作った仕掛け)全部に落ちた鮎の数は、二万三千から三万五、六千匹ばかりになる。現在の西和賀町の和賀川は湯田ダムによって魚の遡上は断絶されている。ダムに魚が遡上できる魚梯が作られなかったからである。ダムが出来る前は鮎はもちろん、鮭、鱒、うなぎ等の魚が北上川を経て遡上した。どこの家にも、鮭網、大きなヤスがあった。
④二月十七日 新町大火。火事による損害の程度、被災等についての記録はない。隣組み同士親戚がお互いに助け合い、励まし合いながら復興を目指されたに違いない。
⑤御代官 池田伊兵衛  松岡八左エ門
延享二年 乙丑(キノトウシ・・・1745年の記録)
①「巣郷本」「白木野本」は十二月 閏。という記録だけである。「下巾本」には三月一日月蝕。十一月 閏あり、とある。「草井沢本」には、三月一日 日蝕。十二月閏あり、とある。3月1日は「月蝕」なのか「日蝕」なのか分からない。「閏」の月も、12月なのか11月なのか不明である。多数決でいえば12月とはなるが、調べないと分からない。写本であるから、このような不明な記録がでることは止むを得ないことであろう。
②四月二十日 越中畑役人 岡本嘉藤治、五月二十日 宮沢市之丞、七月二十一日 木村多恵治、 十月二十日 大川与兵衛。この項の記録は「下巾本」のみにある。
延享三年 丙寅(ヒノエトラ・・・1746年の記録)
①四月十七日越中畑御役人 照井傳右エ門、十月二十五日 大川弥三七。この項「下巾本」のみの記録である。
②御代官 長尾儀左エ門
延享四年 丁卯(ヒノトウ・・・1746年の記録)
①七月一日 「日蝕」。七月十五日「月蝕」。(「下巾本」「草井沢本」の記録。)
②田の稲は枯れる。畑作凶作であったため、当地をはじめ秋田仙北の男女は仙台藩に行く者が多かった。「凶作」の原因は天候不順と思われる。「男女、仙台に行く者多し。」はどのような内容であったのだろうか。「出稼ぎ」という意味で役所も公認したものであろうか。「男女」とは「働き盛り」をいうのであるとすれば、家族は家に残して行ったことになる。この場合は「家族ぐるみ」ではないように思われる。
③二月、上左草村の与七という者の子が、川舟村で盗みをした。長尾儀左エ門様が取り調べにあたり、打ち首の刑を言い渡された。与七とその子の亀は、目明しの五右エ門と同心の松兵衛の太刀取りで、打ち首となった。「下巾本」では、盗みをしたのは「与七」となっている。「巣郷本」「白木野本」には「与七の子」と記録されている。
盗んだものはどようなものであったか分からないが、「打ち首」(死刑)にあたるほど重大なものであったのであろうか。命にかかわる重大な盗みとは何なのだろうか。親子が取り組んだ盗みであったのだろうか。親子共々の刑である。死に行く親子には、一人ではないという慰めもあるだろうが、残された家族は無残な思いに沈んだに違いない。人心を正すための見せしめであったのだろうか。なんとも厳しい刑の執行である。
④六月十五日 洪水で沢内から秋田の横手までの川の橋は、皆落ち流された。
⑤四月十六日 越中畑役人 長峰七兵衛、 十月十八日 山口吉之丞
⑥明くる年「改元」。
寛延元年 戊辰(ツチノエタツ・・・1748年の記録) 
①正月十六日 月蝕。十月閏あり。
②米は七分程の出来であった。畑の作物は大麦、小豆、そば、等の種はなくなつた。大根も収穫なかつた。この不作の原因は「草井沢本」に「七十五日間、日照り(旱魃)にて、そば、大根には種なし」と記録されていることから、旱魃被害であったことが分かる。生活ができないほどの被害を受けたわけである。
③仙台藩に行く者が多かった。「草井沢本」には「仙台へ身売り、かまどかいし(破産者)、手間取り(出稼ぎ)つづく」とある。生活に困った人々は、豊かな仙台藩めざして、次々に出て行ったということになる。
④新町の高橋武次右エ門 新町稲荷神社に正一位の官位を下した。高橋武次右エ門は役人であると思われる。神社の格付けがあって、一定の条件を満たしていることから、官位がくだされたということである。
⑤八月十日は「二百十日」(立春から数えて210日に当たる日。ちょうど稲の開花期で、台風が来る時期でもあるので、農家は警戒する日であった)の朝、大霜が降った。日照りがあつたり、霜が降ったり、正に農家泣かせの異状気象の年といえる。
⑥五月七日 越中畑役人 椎名傳右エ門、六月八日 山口吉之丞、二十四日 中村恒右エ門、十月二十四日 坂手平蔵。
寛延二年 己巳(ツチノトミ・・・1749年の記録)
①正月四日より六日までお月様が三体出る。月が三体あるように見えたということである。自然現象は無限で、計り知れないものがある。三体に見えた方角、形など知りたいものである。
②この年大飢饉。秋田、南部の領民は身代、家財を売り、仙台藩に行く者が数え切れないほどでであった。ことに秋田領より行く者が特別に多く、江戸表の「勘蔵が芝居」に「秋田非人」という劇が上演されたということだ。「草井沢本」には「大不作。南部、仙北(秋田)より、かまどかいし(破産者)身売り、手間取りが、つづけて仙台に参り候」と記録されている。
③この地には、許可なく上下商(じょうげあきない)という行商を行う者が五、六十人もいることがお上(代官所)に知られ、検討吟味された。上下商は九月からそれぞれの地域の五人組の組合に預けられ、商売ができなくなった。
十二月二十二、三日頃、太田のお寺様方が、この上下商の身柄をもらいうけ、事件は収まった。《この当時の沢内通りの商人は、ほとんどが行商人であった。川上から川下へと往来し、仕入れと販売を行っていた。他の領地にも行くことが多々あったらしい。一定の地域に居らず、動き廻ることがお上にとっては、困ることであった。農業より商業に力が入ると農業生産力が弱まる。
領内事情を他領地に知られること、他領地の情報を領内に広められこと、これは領内の安定を脅かすものであった。それぞれの地域の五人組みの組合に預けた理由と思われる。住民にとっては、行商人が来なければ、生活が不便になる。商品の取引は、物々交換の形でなされていたのであるから、行商人が来なくては需要と供給のバランスが崩れ、生活意欲や活力が著しく低下することとなる。太田のお寺様方が、この実態を憂慮し、解決策を探ったものと思われる。
太田には三寺がある。寛永二年(1625年)に建立されたといわれる「碧祥寺」「玉泉寺」寛永四年(1627年)の草庵建立に始まる「浄円寺」の三寺である。現在も三寺は健在である。》
④六月二十九日 大風。 七月十九日 大風。台風による大風と思われるが、被害等は記録され  ていない。「草井沢本」には「田無し、畑無し。」とある。収穫無しという意味である。
⑤四月十八日 越中畑役人 宮沢平太夫、十月十五日 江本八之丞
⑥御代官 又重安左エ門  山屋儀八郎
寛延三年 庚午(カノエウマ・・・1750年の記録)
①五月十六日 日蝕。 十一月十五日 月蝕。「下巾本」「草井沢本」のみの記録。
②四月十九日 工藤源五右エ門、十月十四日 松尾多郎左エ門、十一月十九日 大巻喜左エ門。以上は、越中畑御番人である。「下巾本」のみの記録。
③改元「宝暦」となる。「下巾本」のみの記録。
《「巣郷本」「白木野本」には、この年の記録が一語もない。書き手が病気したのか。写本のため抜かしたのか。不思議である。》
寛延四年 辛未(カノトヒツジ・・・1751年の記録)
①改元あって「宝暦」となる。
②六月閏あり。十月十五日 月蝕。
③四月十八日 越中畑御番人 松尾多郎左エ門、六月十八日 北川角兵衛、十月十日 湯浅多左エ門
宝暦二年 壬申(ミズノエサル・・・1752年の記録)
①この年、田畑の農作物の出来具合は、六分の出来高であった。平年の六割しか収穫できなかった。
②五月二十五日 越中畑御番人 澤内四郎右エ門、十一月十一日 江本八左エ門  
宝暦三年 癸酉(ミズノトトリ・・・1753年の記録)
①凶作。作物の出来が非常に悪く、平年の三割以下の場合がほとんどであったと聞く。
②二月の下旬、湯田村の与吉が行商(上下商)をしていたというので打ち首になった。許可なく商いをしたためか。商いの仕方が間違っていたのか。「打ち首」の理由が不明である。
③四月十五日 夜の月は、日暮れになると火のように赤くなった。次の日の朝日の色も同じように赤い色であった。
④越中畑番人 四月二十一日大巻勝左エ門、十月十一日 太田忠治左エ門
⑤御代官 松岡八左エ門
宝暦四年 甲戌(キノエイヌ・・・1754年の記録)
①二月閏。十五日月蝕。八月十五日 月蝕。
②田の稲作は上作で、平年よりもよい出来であった。畑作は「半作」平年の五割の出来であった。
③内の澤の亥之多という者、親不孝だというので大野々において首を絞め殺された。親不孝の実態は分からないが、前年の「行商人」といい、「親不孝者」といい、公的に処置される「命」の軽さは、動物なみかそれ以下である。そのために社会倫理、道徳がきっちりと保たれたという見方には、大きな矛盾がる。社会倫理も道徳も本来、人間の命と尊厳を保障し、守るためにあったと考えるからである。 
④越中畑番人 四月十二日 原只右江エ門、十月九日 湯浅定吉
⑤御代官 佐久間縫右エ門
宝暦五年 乙亥(キノトイ・・・1756年の記録)
①大々飢饉にて、百穀一つも実らず。米をはじめ全ての穀物は実をつけなかった。秋田から米糠を買い、ワラビの根、葛の根の澱粉で命をつなぎ、やっとのことで雪を消した。飢饉になつた前兆は去年からあった。一年の中で最も寒い期間である「寒」の三十日間は暖かった。水屋(炊事場)の床板の下では、夜八時頃から午前三時頃まで「こおろぎ」虫が泣き明かすことであった。
十二月二十八日から正月にかけてはたいへん寒く、天候は荒れに荒れて、これまで経験したことのない天候であった。川という川は氷が張って、橋も渡し舟も使わずに渡ることができた。川尻から北上まで野原のようになり、北上川も馬が氷渡りして往来した。
②正月二十四、五日まで氷は解けて壊れることもなかった。春彼岸のお供え団子は、凍って石のように堅くて食べることができなかつた。
③春の土用の節気には、例年でる雪解け水も出なかつた。ツツジの花は六月(新暦では七月)に咲いた。山々の木の実は一切なかつた。六月より秋まで寒く荒れた日が続いた。川魚を獲る事もできなかった。田植えの頃、秋田の筏村(いかだむら)では、晩秋にあるはずの鱒の産卵する様子がみられたという。飢饉である。
④八月、お上様(殿様)より「俵さがし」(隠し米等を探す)の役人が派遣されて来た。盛岡をはじめ花巻近在の村々残らず沢内まで「俵さがし」があつた。代官所の役人たちを引き連れ、家の倉庫はもちろん、馬屋や床板の下、小屋、空き家、山まで吟味し探し廻った。見つけ次第、帳面に書付け、その時の御代官に渡して探し廻る。その雑用費用は、百貫文程(約500万円)かかり、この秋限りの実施であるとのことである。
⑤「俵さがし」の際、御用米、並びに金銭を仰せつけられた方々は次の通りである。 
 ○三十五駄(1駄は馬1頭に背負わせた荷の分量。米2俵が標準。近世の年貢米は米1俵三斗五升を標準とした「日本国語大辞典」。1駄は米7斗となる。米1斗は15kgであるから1駄は105㎏となる。)
 米70俵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小繋澤ノ徳兵衛
 ○百駄と銭三百貫文(銭1貫文は銭1000文のこと。ただし、近世では960文「日本国語大辞典」。1文を50円として換算すると、銭1貫は4万6000円から5万円ということになる。)
 米200俵と銭300貫文(1500万円)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉泉寺隠居
 ○百二十五駄 銭三百貫文・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新町八郎左エ門
 ○三十駄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・芦ケ澤ノ監物
 ○三十五駄 銭五十貫文・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新町喜之助
 ○四十駄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・下左草村ノ権右エ門
以上の他に少しずつではあるが帳面に記載された者が数人あった。《一駄の量は米二俵であるが、沢内の古老の話では、米1俵は4斗であったという。最低の量は3斗5升ということになる。枡で計る場合人によってずいぶん違ったともいう。何時の時代でも、ある所にはあるものだと思う。同時に「俵さがし」は、厳しく、徹底したものであったに違いないと思う。》
⑥田は青絶(あおたつ)。畑は半作であった。稲は伸びることなく終わった。畑の収穫は平年の半分であった。
⑦米(一升か、一斗か不明)が八百二十文ばかり、(1文は50円とすると41.000円。1斗の値と思われる。1升でも4.100円)小糠一升が十六文ばかり(800円)信じられないような値段である。「俵さがし」のため、飢饉に備えた余裕などなかったため、このような値段になったと思われる。以上、宝暦五年の記録は「白木野本」による。《「巣郷文書」には、大飢饉で犬、牛をすべて喰い尽し、着物をカユ一杯と替えた。家一軒を米一升か二升で売った。と記されているという。》
宝暦六年 丙子(ヒノエネ・・・1756年の記録)
①十一月 閏。
②去年は米をはじめ穀物の収穫がなかったため、食べ物がなくなり、人々はやせ干からびて、昔の幽霊の絵をみているような姿であった。草むらや木陰に倒れ伏して、泣き悲しむ声は、山野にやかましいほど響いていた。飢えて死んだ人々の死骸は、道のあちこちに、重なり合うように満ちあふれていた。
昔、「治承・養和の飢饉」「源氏と平氏の戦争」「元弘・建武の戦い」で亡くなった人々を合わせても、これほど多くはなかったであろう。なんとも恐ろしいことである。
③御代官 梅本所左エ門  嘉村重兵衛
④米値段 一升につき百二十文(6.000円)より百三十文(6.500円)まで。
⑤作物の出来具合は「上作」であった。「草井沢本」には「大不作。無になる。雪降る四月八日まで肥(堆肥)引き(そりで運ぶ)申し候。亥の年(去年)種もみ一切無く、いね植えかね申し候。いね田へは、残りひえ植え申し候。とある。
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