外交に密約、機密があるのは主権の行使であり、当然ではないか。外交の素人が集まってガイコウのまねごとをしている。素人というより小学校のPTA総会の阿鼻叫喚に似ている。鳩山政権のことである。密約を暴露することに政治生命をかけるのは愚の骨頂である。
▲核は持ち込まれていた!
もともと「核は持ち込まれていた」という爆弾発言をライシャワー元大使にインタビューして(81年5月)、引き出したのは古森義久氏だった。
その後、何人かの外交官が回想録にも書いた。とくに村田良平氏の回想録(ミネルバ書房、上下二巻)には、かなり詳細に書かれている。
それらから類推しても、日米間に「密約」が存在したことは常識だった。そもそも外交には密約が存在するのは当然であり、必然であり、欧米はときに密約というマキャベリズムで綱渡りを繰り返し、ウィーンの会議は踊った。
岡田外務省の「密約」問題有識者委員会の調査結果が公表された。外交常識を踏みにじる行為で、相手国が激怒するのは当然だが、あまりに無知蒙昧な岡田外務省の対応を米国は静観する。
クローリー国務次官補(広報担当)は「これは日本政府の問題だ」とし、「日米の協力関係に重大な影響を与えるとは思わない」と記者会見した。
報道官は続けて、「米国は核兵器に対して日本人が特別な感情を持っている事実を認識する一方で日米安全保障条約で課せられた責務を忠実に果たしていく」とした。
ニューヨーク・タイムズは「日本は冷戦時代のいわゆる密約の存在否定を葬った」と題し、有識者委員会が「日本政府は明白なウソをついていた」と淡々と論評した。
三月十九日、衆院外務委員会は日米密約に関する参考人質疑を行った。鈴木宗男衆院外務委員長は平成11年に関連文書を引き継いだとされる谷内正太郎前外務事務次官の参考人招致を求める意向を示した。
参考人質疑では、東郷和彦元外務省条約局長が安保改定以後の核搭載艦船の寄港をめぐる密約に関し、58点の文書を5箱のファイルにまとめ、平成11年に後任の条約局長となった谷内氏に引き継いだと証言した。文書リストは当時北米局長だった藤崎一郎駐米大使にも渡したなどと証言した。
有識者委員会の調査では東郷氏がファイルしたとする文書のなかで昭和35年に高橋通敏条約局長が米大使館から核兵器の所在を明らかにしない(NCND)政策の説明を受けた際の会議録は発見できなかったとした。
核兵器の持ち込みについて亡くなる前に村田良平元駐米大使は「米海軍艦艇の少なくとも一部は戦術核兵器を搭載していた。それは当然、横須賀や佐世保、沖縄に立ち寄っただろう。『それすら持ち込みだ』というのであるのならば、たしかに『持ち込まれていた』のである」と言及していた。
村田良平氏は「核を『持たず』『作らず』というのはいいが、『持ち込ませず』というのは日本の安全を考えるなら、もっと伸縮性を持たせるべきだ。武器輸出三原則もそうだが、原則という言葉をうかつに使うと自縄自縛になり、機動的な政策が取れなくなってしまう」として「非核三原則は当然、廃止すべきだ。北朝鮮の核問題に関して「私はミサイル防衛を完全には信用していない」として、抑止力として米国から核を持ち込ませることにも触れていた。
▲密約の交渉役は誰だったのか?
誰が沖縄返還の密約をお膳立てしたか?いまは亡き若泉敬氏である(筆者と若泉氏との関係は拙著『三島由紀夫“以後”』(並木書房参照)。
若泉敬(京都産業大学教授)は佐藤政権でワシントンとの密使をつとめ、佐藤栄作―ニクソン、若泉―キッシンジャーの特殊コネクションを駆使し、ときに変装して佐藤事務所に出入りし、偽名をつかってワシントンでキッシンジャーとの秘密交渉を繰り返した。若泉のコード名は「ヨシダ」だった。
密約の概要とは「返還後の基地使用」は表の公約、裏面では「緊急時の核の再持ち込みと通過の権利」である。合意メモには、「日本国政府は、大統領がのべた前記の重大な緊急事態が生じた際における米国政府の必要を理解して、かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたすであろう」とあった。
1969(昭和44)年11月29日の日米首脳会談のおり、ホワイトハウスの別室で、ニクソンと佐藤栄作は、この密約合意議事録に署名し、各一通を保管した。この経過を若泉は書き残し、国会からの証人喚問を覚悟していた。ところが国会の喚問はなかった。世論は若泉の著作を無視した。
当時、外務省嘱託だったかの身分で外務省差し回しの黒塗りの車にのって、若泉は会場に現れた。このとき氏は38歳だった。密約の前年、もっとも彼が多忙を極めて時期である。
昭和43年6月15日、全日本学生国防会議の結成大会。氏は高坂正堯氏とともに、当日記念講演にやってきて呉れた。三島由紀夫も駆けつけ、議長となった森田必勝のためにも、万歳三唱をやってくれた。筆者は舞台裏でこの会議の進行を受け持っていた。
その前後、筆者等は毎月一回大木戸の野口記念館にあった若泉事務所に通い、新聞のスクラップをつくる手伝いをしていた。
新聞全紙を二部づつ購読していた若泉が赤鉛筆で1-16のカテゴリィに分けたものを切り抜き、日付順に16冊のスクラップを作成した。学生五人で二日がかり、これを毎月アルバイト動員で手伝った思い出が突如蘇った。
密約へと至る交渉の経過を四半世紀を経て、1994年に大作『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で表したが、マスコミも政界も、これをまったく無視した。
▲日本への哀惜と憤怒の書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』
若泉が悩んだのは沖縄返還の条件が核の再持ち込みという難題だった。若泉は、沖縄県民を『裏切った』という自責の念を抱き続け、沖縄の戦没者の慰霊の旅を続け、東京にいた間はよく靖国神社を参詣した。
晩年、若泉は福井の自宅二階を「無畏無為庵」と名付け、その広間に大きな地球儀を置いた。そして福井に逼塞したのである。
マンスフィールド米大使(当時)が若泉を福井に訪ね、その地球儀を横に記念写真を撮ったが、それが週刊誌のグラビアに出たことがある。
筆者は、久しぶりに若泉の動静を聞いた。なぜなら京都産業大学の同僚たち、教え子等に問うても、授業を終えるとそそくさと帰路につき、殆ど会話しないという逸話を聞いていた。
また共通の友人でもあったガレット・スカレラ(ハーマンカーンの高弟)がわざわざ京都へ会いに行ったが、これという印象を筆者に語らなかった。もっと詳細を聞こうとしているうちにスカレラも癌で急逝した。
若泉は沖縄行脚を続けた。そして沖縄への慰霊の旅を著作の中で、こう書いた。「心眼を開き、心耳を澄ませば、私の魂の奥深くに静かに喚びかけてくるこの人柱たちの祈りの声を、私は、否、われわれは、これ以上、黙殺してよいのだろうか」と。
当該書籍の英訳版の打ち合わせのため出版関係者が若泉の自宅を訪れた。膵臓癌で余命幾ばくも無しと言われていた。1996年7月27日。打ち合わせを終え、彼らが帰路について三十分後に若泉の急逝が伝えられた。それが青酸カリを飲んでの自決と分かったのは、数年を経てからの関係者の証言だった。壮烈な最期だった。
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