5298 「沢内農民の興亡」を書いた頃 古沢襄

古澤家の足跡に関心を持ったのは、いつ頃だっただろうか。昭和57年2月に母真喜が十年間の闘病生活の末に亡くなった。文学を志していた母は長い闘病生活のあいだも小説を書く情熱だけは失わなかった。それが生きている“あかし”のように・・・。 
母の供養のために未完ではあるが、同人誌「星霜」に連載した唯一の作品と父古澤元の遺稿から私が好きだった作品を選んで、夫婦作家の遺稿集を世に問うことにした。三信図書から、その年の三月に出版された「びしゃもんだて夜話」がそれである。二十八年前のことになる。
出版後七年たって農民文学賞、田村俊子賞を受賞している女流作家一ノ瀬綾さんが、遺稿集を読み、母の一篇の詩と、一篇の小説の質の高さ、内容の一途さに感動した。また古澤元の作品に漂う哀感に強くひかれ、二年後に伝記小説「幻の碧き湖 古澤真喜の生涯」を筑摩書房から出版した。
平成九年春、沢内村から佐々木吉男、加藤昭男、盛岡から高橋征穂、それに一ノ瀬綾各氏の突然の来訪があった。そして古澤元をしのぶ一夜の歓談になった。一行が帰郷して間もなく、加藤昭男氏から岩手大学の細井計教授の監修による沢内村史上下二巻と資料編が送られて来た。昭和55年から十四年間の歳月を費やして編纂された沢内村史は、沢内村の旧家に現存する古文書資料、「盛岡藩雑書」「盛岡藩覚書」などの第一級資料を駆使した本格的な歴史書である。
山間の僻地ともいうべき沢内村で、このような村史が作られたという村の文化水準の高さに驚嘆した。興味に駆られて村史を耽読するうちに、三百年続いた古澤家の足跡が十数カ所読み取れた。一介の本百姓に過ぎない古澤家の先祖は《善兵衛》とか《善蔵》という古澤姓抜きの名前でしか標記されていない。したがって、村史からこれを読み取れるのは、古澤家の系図を研究した吉見正信氏と私しかいないであろう。
私が古澤家の三百年の歴史の重みと沢内に生きた先祖たちを強烈に意識したのは、この時である。それが「沢内農民の興亡」を書くきっかけとなった。
盛岡藩の隠し田といわれた僻地の沢内村の本百姓でしかない古澤家には、系図はもともと存在しないし、その先祖をたどるには、残された墓碑の読み取り、菩提寺に残された過去帳、「盛岡藩雑書」「盛岡藩覚書」の記述、他家に残された古文書資料(古澤家に伝わった古文書は倒産によってすべて散逸している)から組み立てるしかない。しかしこれはある意味では脚色されることが多い系図よりも、遥かに客観的で後世に伝えても、恥ずかしくない実証的な歴史の事実の積み重ねになる。
「沢内農民の興亡」の構成は三部作となった。第一部は三百年の歴史を刻む古澤家の先祖の生きざまを出来るだけ再現しようと努めたつもりである。マタギが切り開いたといわれる沢内の秘境に先祖たちは外来者の農民として根を下ろした。最初は先住者の狩人と外来者の農民の相克があったに違いない。しかしこの村に根を下ろして同化し、進取の気性を持って村の新田開発に勤しむうちに、この相克は解消していったと思う。
第二部は作家・古澤元の孤独な生い立ちと文学に一生を賭ける三十九年間の軌跡を描いた。身内の情念を出来るだけ押さえ、客観的な評価と分析に終始したつもりである。それにしても戦前の知識人の苦悩は、戦後のわれわれには計り知れない苦難の道であった。登場する人物のほとんどがその苦悩を抱いてこの世を去った。この教訓と遺産をどう継承するかが、残された者の責任だと思う。
第三部は古澤元の評論とエッセイの主なものを収録した。この意味では古澤元の代表作を収録した「びしゃもんだて夜話」の姉妹編といえる。評論とエッセイは古澤元の文学を解明する重要な手掛かりになる。本来なら日記や書簡も収録すべきであろうが、かなりの部分が散逸していて割愛せざるを得なかった。
この作業で思わぬことがあって、感動のあまりしばらく立ちすくんでしまったことを付記したい。高見順はその「昭和文学盛衰史」で古澤元が《中間文学者》なる用語を戦前にすでに使っていたことを紹介しているが、その原文を求めて駒場の日本近代文学館を訪れ、同人誌「麦」を見せて貰った。
館員が持ってきた「麦」のその部分を見ると、高見順が紹介した古澤元の文節に鉛筆でアンダーラインが色濃く引いてあった。「麦」は高見順が日本近代文学館に寄贈したものなので、アンダーラインは高見順のものとすぐ分かった。古澤元が死去して半世紀を超え、高見順がこの世を去って三十余年たつ。しかしアンダーラインは昨日のことのように残っていた。
残念だったのは「麦」「正統」を通じて古澤元の無二の親友であり、「星霜」で古澤真喜の同人だった作家池田源尚氏が平成九年八月二十四日に亡くなられたことである。「沢内農民の興亡」の完結を誰よりも一番心待ちにしていてくれただけに悔やまれてならない。地下にある古澤元、古澤真喜とともにこれらの方々の御霊にこの作品を捧げたい。
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