5315 和解なるかカチン事件 渡部亮次郎

<ロシア、カチン事件で和解図る ポーランド首相招き追悼へ。【モスクワ共同】第2次大戦中にポーランド軍将校ら2万人以上が旧ソ連秘密警察に虐殺されたロシア西部の「カチンの森」事件をめぐり、ロシアのプーチン首相が7日に現地で行う70周年追悼式にポーランドのトゥスク首相を公式に招待、虐殺を扱った映画を国営テレビで放映し、歴史的和解に向けた動きを見せている>。
事件は昭和14(1939)年に起きたもの。日本はシナとの対戦に血道を挙げていたし、間もなく対米戦争に突入するから、日本国民はカチン事件など知る由も無かった。
勿論、知識階級の中には海外情報を得て認識した人もいるにはいただろう。しかし、少なくとも筆者は中年になるまで知らなかった。弁解にもならないが・・・。
2007年にポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダによって、この事件を題材とした映画『カティンの森』が制作された。たしか09年に日本でも公開されたが、見には行かなかった。ワイダの父親もこの事件の犠牲者である。
<1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両方に侵攻されたポーランドは敗北した。ソ連の占領下に置かれたポーランド東部では、武装解除されたポーランド軍人や民間人がソ連軍の捕虜になり、強制収容所へ入れられた。
1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人をふくむ230,672人と訂正した。
ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして何度もソ連側に問い合わせを行っていたが、満足な回答は得られなかった。
1941年の独ソ戦勃発後にはポーランド・ソ連間で条約(en)が結ばれポーランド人捕虜は釈放され、部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1に満たなかった。
ポーランド亡命政府は捕虜の釈放を正式に要求したが、ソ連側はすべてが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日にはポーランド亡命政府首相・シコルスキがスターリンと会談したが、スターリンは「たしかに釈放された」と回答している。
独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置きこの情報を耳にした。1943年2月27日、ドイツ軍の中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。
発掘途中の調査では、遺体はコルジェスク捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の状況は死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連軍の犯行を窺わせた。
しかし、独ソ両国は長い事罪のなすりあいを続けたが、1989年、ソ連の学者たちはスターリンが虐殺を命令し当時の内務人民委員部長官・ベリヤ等が命令書に署名したことを明らかにした。
1990年、ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めた。
1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第1号から公開した。その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の殺害が実行され彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたフルシチョフあての文書も含まれていた。>「ウィキペディア」。
<しかしソ連の継承国ロシアはポーランドが虐殺を政治的に利用しているとの不信感を抱き、一部ロシアメディアはナチス犯行説を紹介するなど、両国間にしこりが残っていた。
ロシア国営テレビは追悼式に先立ち、これまで国内でほとんど上映されていなかったポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の映画「カティンの森」(2007年公開)を2日に放映。「史実に基づいた作品」などの専門家らの映画評も伝えた>。【共同通信】
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