天皇、皇后両陛下主催の春の園遊会でフィギュアスケートの浅田真央選手が「このたびは本当におめでとう」と天皇陛下から声をかけられた。オリンピックの大舞台で緊張もせずに銀メダルを手にした真央ちゃんが、「はい」を四回、「ありがとうございます」を四回繰り返しただけ。
天皇家という歴史が持つ重い雰囲気に「頭の中が真っ白になって何も覚えていない・・・」。
だが近衛文麿首相は皇居で昭和天皇と会う時は、足を組んで話をしたという有名な話がある。帝都を震撼させた二・二六事件のクーデターが鎮圧された後、昭和十一年三月四日、昭和天皇は近衛文麿を次期首相に選び、組閣の大命が降下された。元老・西園寺公望の献策による。
ところが近衛文麿は大命を拝辞した。要するに昭和天皇の命に応じなかったということである。近衛家は藤原鎌足を祖とする五摂家の筆頭、近衛文麿は若い頃から「殿様」であり、「閣下」であり、「若様」であった。三歳で宮中に参内、天皇陛下や皇后陛下に会っていたが、宮中では”小関白”といわれていた。小関白は小腕白に通じる。我儘者だったわけである。
西園寺公望はやむなく広田弘毅を奏請して、三月五日に大命は広田弘毅に下った。
藤原鎌足は祭祀をもって王権に仕える一族で中臣鎌足といった。中臣家の出自は大和国高市郡藤原(奈良県橿原市=「藤氏家伝」)と大原(現在の明日香村)、常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市=大鏡」)もあってはっきりしていない。
この当時、渡来系の先進文化を持った蘇我氏が王権の中で力を持って開明的な改革政治を行っている。蘇我系の代表的な王族は厩戸皇子=聖徳太子(用明天皇の第二皇子、聖徳太子の実在には諸説がある)。大陸から伝来した仏教は厩戸皇子と蘇我馬子によって興隆をみている。
この蘇我系王族と対立した非蘇我系王族に彦人大兄皇子(敏達天皇の長子)がいた。天皇家の歴史上、初の女性天皇である推古天皇が誕生しているが、彦人大兄皇子の方が後継者にふさわしい。それが遮られたのは蘇我氏の策謀であろう。事後、蘇我蝦夷、入鹿の専横が目立つようになった。
推古天皇の没後、蘇我系王族と非蘇我系王族の対立が激しくなっている。蘇我蝦夷、入鹿打倒の狼煙をあげたのが、中大兄皇子(舒明・皇極両天皇の間に生まれた王子)と中臣鎌足(鎌子)であった。大化元年(645)六月に蘇我入鹿を暗殺するクーデターが決行された。(乙巳の変)
中臣鎌足は、この功績で内臣(うちつおみ)に任じられ、軍事指揮権を掌握している。天智天皇から「藤原」の姓も賜った。こうみると藤原氏は天皇家の歴史とともにある。爾後、藤原氏は奈良時代に、南家・北家・式家・京家の四家に分かれ、平安時代には北家が天皇家と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。
鎌倉時代以降は姓の藤原ではなく、「近衛」、「鷹司」、「九条」、「二条」、「一条」などの苗字に相当する家名を名のり、公式な文書以外では「藤原」とは名乗らなかった。この藤原本流を「摂家」「五摂家」「摂関家」と呼んでいる。
「近衛」が五摂家筆頭といわれるのは、近衛から鷹司(たかつかさ)、九条から二条と一条が枝分かれした経緯がある。天皇家と姻戚関係を持つ近衛文麿が昭和天皇の前で足を組み、大命降下を固辞したのは、家柄の自負があったのかもしれない。
安土桃山時代から江戸時代初期の第107代後陽成天皇の中宮は近衛家から入内(じゅだい)している。第三皇子は政仁親王(後水尾天皇)、第四皇子は近衛家に養子入りして近衛信尋を名乗った。その後の近衛家は養子を入れていないので。血統的には天皇家の直系の男系子孫ともいえる。
西園寺家は藤原氏の系譜に属するが、五摂家に次ぐ家柄の「清華家」(せいかけ)に属している。格下に家柄である西園寺公望の献策や親戚筋の昭和天皇の大命を蹴飛ばしたという見方も出来なくない。その近衛文麿も敗戦直後に占領軍に逮捕される前に毒を仰いで自殺した。
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5386 五摂家筆頭の近衛家は藤原鎌足の子孫 古沢襄

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