田中角栄が逃げたたった一つのポストが「官房長官」だった。このポストのこなし方は、それくらい難しいし、場合によっては、その政権の命運を左右するし、自身の政治家としての将来を決する。
<新党大地の鈴木宗男代表は18日、神奈川県藤沢市内で講演し、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題について「鳩山由紀夫首相が5月末に決めると言ってるんだから、首相に任せたほうがいい。官房長官が『5月末は難しい』などと暗い顔して言ったらダメだ」と述べ、平野博文官房長官の姿勢を批判した。
社民党の阿部知子政審会長も同じ講演会で、普天間問題をめぐる平野氏の対応について「優しさとか、粉骨砕身して沖縄の問題に答えを出していこうという姿勢が感じられない。沖縄の人と心底ひざを交えて話す勇気と気概がない」と痛烈に批判した。(産経)>
平野長官を斬って延命を図る鳩山首相という場面、無きにしも非ず。
<鳩山内閣の支持率低下は鳩山氏自身の迷走が原因だが、それに輪をかけて側近の平野官房長官の無能ぶりがあるという。「平野A級戦犯説」すら取り沙汰されている。>と2010.04.19 Monday name : kajikablog(古澤襄)
田中が逃げたのは、親分佐藤栄作が政権を握っている時代。佐藤は田中の手綱を引き締めないと、暴れ馬になり、自分の後継に福田赳夫を据えられなく恐れがあると判断。官房長官にして手許で監視しようと考えた。
既に佐藤の後継者として、福田と戦うことを決意していた田中はあらゆる策略を用いて官房長官構想を潰した。佐藤の逆鱗に触れたわけだから一時は無役にされた。ライバル福田は喝采した。そこがこの政治家の弱点である。
野に放たれた田中は佐藤派は勿論、各派に亘って多数派工作に専念、佐藤の知らぬところで党内の多数を制してしまった。対して福田は「上善水の如し」と嘯き、なんら工作をしなかった。多数派工作をすれば佐藤の自尊心を傷つけると判断したのである。
結果は田中の圧勝。福田は下野せざるを得なかった。私はNHKで福田番だったが、なぜか田中内閣の官邸クラブにサブ・キャップとして入れられた。
官邸クラブを離れて数年後、「友人」園田直(すなお)から相談をかけられた。「福田内閣がやっと出来る、何大臣をやったらいいか」
「そりゃ内閣官房長官しかないでしょう。内閣を握りながら次期首相の大平と緊密な連絡がとれるポストといったらここしかない」「やはりそうか、じゃ決めた」で別れた。
福田は官房長官には安倍晋太郎を考えていた。晋太郎の岳父岸信介は福田の親分でもある。その岸から予て「注文」があったのだ。園田はそれを先刻承知。さっさと塩川正十郎を副長官に連れて官房長官室を「占拠」。
何しろ福田にとって園田は政敵田中角栄と話をつけてきた「恩人」である。やんちゃな園田の態度を認めるしかなかった。昭和51(1976)年12月24日のことだった。
「官房長官を安倍に」と言う岸の要求は激しかった。福田は1年後の11月28日に内閣改造を行なったが、園田を斬るわけには行かず、たった一人残留させ、閣内ナンバー2たる外務大臣に横滑りさせた。
園田は胸中の怒りを抑えながら、「密約」に従い、この一年後に大平政権を樹立する事に精力を傾注しながら、田中政権以来、政府の懸案である日中平和友好条約の締結に全力を傾けた。このとき秘書官は NHK国際局副部長から招かれた不肖私であった。
園田は官房長官として、次期首班を約束されている幹事長大平に対して福田の任期を1年延長する交渉を続け、ほぼ了解を取り付ける寸前まで行っていた。首相にはまだ報告できる状況ではなかったが。
しかし、岸の圧力に抵抗しなかった福田に園田は愛想が尽きていたので、大平との交渉は沙汰止みとなった。その後、福田が密約を破って大平に総裁公選をあえて挑み惨敗。福田の恨みは深く、それに負けて大平が急死。本来なら福田に戻っても可笑しくない首相の座が、あろうことか鈴木善幸に渡った。
渡したのは大平への弔問から帰宅した角栄邸での田中・園田会談だった。官房長官のポストとは、かくのごとく重く内閣の命運を左右し、政治家自身の行方を決める。「鳩山は官房長官の人選を間違えた」と言う批評は当然、平野に言わせれば首相を間違えた事にもなる。(文中敬称略)
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5411 官房長官の吉凶 渡部亮次郎

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