明和五年 戊子(ツチノエネ・・・1768年の記録)
①十二月一日 日蝕。正月四日五つ時(午後八時)地震があった。
②六月五日に雨が降ったが、六日から七月十一日まで日照り(旱)が続いた。
③七月二十八日 大地震。八月二十九日霜が降る。地震と天候不順は人々の不安を募らせたに違いない。しかし、田畑の出来具合は「中の上」とある。
④田畑の出来具合は、七分くらい「白木野本」。「草井沢本」には、田一反歩(300坪・約991.7㎡)の年貢割合は19.99%。畑は10%。「入石(いりこく)は二三文。肝入(きもいり)にては、二四文まで」と記録されている。「入石は23文」という意味はよく解 らない。先達のお話によれば、「入石」は米を他地域から買い入れること。その場合は1石(10升・15㎏)あたり23文(1、150円)を更に納めるということ。「肝入」というのは村長であり役人の代役も兼ねていたから、役所を通して買い入れる場合は、24文を納めることと解されるとのことであった。だとすれば「入石」は関税、通関税と解される。
⑤三月二十三日 越中畑番人 駒ヶ峯六郎。 九月二八日 堀江藤右エ門この人病気にて盛岡へ帰る。代わりに中野専右エ門が来る。「下巾本」
明和六年 己丑(ツチノトウシ・・・1769年の記録)
①十一月十六日 月蝕「草井沢本」。「下幅本」では「日蝕」となっている。
②田の出来具合は七分の出来であった。畑作物は上作であった。粟・大根・糸(麻糸)・油(菜種)・大豆は上々の出来具合であった。稲穂に疵が多いのは蝗(エナムシ)のためで
ある。
③時々地震があった。
④四月五日の晩より六日昼まで、大風が吹き荒れ、木の葉を落とし苗代に入り皆が迷惑した。 苗代に種籾を播き、苗が芽をだしたばかりなのに、木の葉が落ちては大事件である。苗がなければ米が穫れないからである。「草井沢本」には「大風吹き、木の葉ふき落とし、苗代に吹き入り、播いた種籾も吹き溜められ難儀つかまつり候」とある。盛岡地方気象台に若葉が吹き飛ばされる風速をお尋ねしたところ、秒速10mから15mで、木全体が激しく揺れるので木の葉も落ちるのではないか。それ以上の風速になると小枝も折れ飛ばされるということでした。
秒速15m前後の風が昼夜吹き荒れたことになる。小枝のことは記録にはないが、おそらく小枝も木の葉も一緒に飛び散らされたのではないかと思われてならない。種を播いた苗代に入ることができないので、人々は竹竿に小さな網を括り付けた道具を使い、笹だけを使い、家族総出で落ち葉を掬い取ったに違いない。「草井沢本」には七月十五日頃より、前年より三分ばかり田はよくなり、年貢は一反歩当たり23%。畑は13%と記されている。
⑤八月長星でる。「長星」は「ほうき星」「彗星」のことである。古老の話しでは「ほうき星」は悪いことの予兆として人々を緊張させたものだという。
⑥六月二十八日 太田の碧祥寺の梵鐘が出来上がった。
⑦十二月秋田藩の役人山川直八、原田大五郎含め六人が、横手の給人落合喜三太が沢内に来なかったか。隠れ住んでいないかを調べるために来た。越中畑を通り、関所番人長沢忠右エ門が挨拶して通す。落合喜三太なる人物については記録なし。
⑧越中畑番人 中野専右エ門、三月二十六日高橋平作、九月二十八日長沢忠右エ門
明和七年 庚寅(カノエトラ・・・1770年の記録)
①五月一日日蝕「下巾本」「草井沢本」。六月 閏あり。
②六月四日 朝七つ時(午前四時)過ぎ、大地震。地震の程度や震度は記されていない。
③六月九日 「ふしぎ星」出る。どのような「星」なのか不明。「内史略」には天和二年(1682年)「熨斗星」(のし星)の記述がある。「天和二年七月二十日の頃より西の方へ星出る。星より雲の如きもの出る。八九月ころまで有り。世俗その名を熨斗星と唱える」とある。彗星の一種かも知れないが、彗星とは違う「ふしぎ星」であると思われる。
④七月二十八日夜子の時(午前12時)より始めて空の色赤くなる。雲やけのようであった「下巾本」。東南一面に空に後光さす。北の方空の色赤く雲やけのようであった「白木野本」。北の方そらのいろ雲やけのように、あがくなりて北東西一面に、南方へ空半分まで後光さす「草井沢本」。時刻は同じ「夜子の時」となっている。
⑤六月七月盆前まで大日照り「草井沢本」のみに記されている。歴史年表には「1770年― 71年 諸国干害」とある。
⑥田作中の上。場所によっては少々蝗害があった。粟はよく出来た。
⑦九月五日 大野の稲荷神社に正一位の資格が下された。
⑧秋田藩・横手の役人赤坂嘉門、同心二人を連れて、喜三太なる者を探しに来た。沢内のあちこちを探し廻り、時の御代官多田金太夫、小田嶋喜兵衛はじめその他大勢で川尻まで協力したけれど喜三太はおらず帰っていった。喜三太はどのような罪を問われ、探されたか分からない。御代官まで協力するとなると相当に重要な罪を負っていたと思われる。
⑨三月二十九日 越中畑番人高橋長左エ門、九月二十八日久保田六左エ門
明和八年 辛卯(カノトウ・・・1771年の記録)
①五月十七日 大雨が降り洪水となった。山から溢れ流れる出た水が、田植えしたばかりの田を流し、村人が皆困った。川尻村の下通り古瀬屋(ふるせや)まで洪水が押し寄せ家が流された。湯田の山室の橋、綱取の橋(川尻橋の付近)、が流れ落ちる。
②田畑は上作、よいできであった。「草井沢本」には、「粟当分よし。大豆、麻糸の出来は悪くその他はよかった。年貢11%利助、七右エ門、長八。入石(他から買い入れた米1石・10斗・150㎏)は、14文から26文まで(700円から1、300円まで)の税金であった。御買いあげの米は1石(1,050㎏)に付、1斗2升(18㎏)の課税であった。つまり米1石を御上が買い上げる場合、農家に支払われるのは9斗8升分の値段であったということである。お値段一駄売り(1駄は米7斗・105㎏)八百文(約4万円)。一升に付き二四文ぐらい。」と記されている。
「一升に付二四文ぐらい」とはどんな意味なのか分からない。1駄の値段が800文でこれは一升につき24文に当たるという意味であれば、計算が合わない。70升で800文であれば、1升当たり11.42文となる。また課税だとすれば、とんでもない高額となる。1駄(7斗・70升)で1升につき24文の課税とすれば、1、680文ということになり、800文の値段の倍以上となるからである。小口での売買は「一升に付二四文ぐらい」という意味と考えられる。
③秋田藩横手の商人、安兵衛という者が「売買荷物係の役人はいい加減である」「切留甚右エ門は役人の地位を利用して横領している」と盛岡の役所に訴え出た。甚右エ門は役所に呼び出され取り調べられた。甚右エ門の勤務内容に疑いが無いことが明らかになった。しかし、小繋村から越中畑までの問屋はみな手錠をかけられた。ことに小繋村の長兵衛は安兵衛の常宿であったので盛岡に呼び出され、安兵衛と対決させられた。長兵衛の言い分が勝り認められ、安兵衛は秋田領に送られた。
④この年、北上市の煤孫(すすまご)の慶昌寺和尚が大石に閑居寮(隠居の住まい)を建て移り住む。御代官田鍍(たぐさり)太郎右エ門
⑤十月、「畑返し御改め」(畑を田に開いた耕地調べ)として役人が十二人来る。勘定頭内城嘉左エ門、御目付太田忠太夫、御物書工藤嘉太夫の三人は泉沢の久兵衛家に数日泊まった。太田村と川舟村の検地は、栃内藤太夫、下斗米善次郎、太田村肝入(藩で認めた村長)太郎治、村古人(こにん・肝入、老名、古人は村々の行政機構の一体系・諸証文に署名している。村の物識り、老人を古人したと言われる)半六、作之助。新町村の検地は、長峯兵作、安宅(やすみ)利太夫、新町肝入武次右エ門、村古人三四郎、万十郎。桂子沢村の検地は長坂弥三兵衛(「巣郷本」には長沢弥左兵衛となっている。)上野文治郎、村肝入幸左エ門、村古人嘉右エ門、市左エ門。
湯田村の検地は下斗米忠作、松原吉四郎、御竿取(検地のための竿を持つ役人、測量士)治助、徳助、村肝入利左エ門、村古人長助、長左エ門。湯田下通り(川尻方面か)の検地は、山口紋右エ門、中松平吉、御竿取盛岡八幡町の半之助、石町権太郎、村古人伊三兵衛、長八。これらの役人衆は十月に沢内に到着された。大規模な検地、徹底した検地、おそらく畑地の開田面積に限らず、全耕地が検地測量されたに違いない。
⑥壬辰九年(明和九年)改元があって「安永」となる。
安永元年 壬辰(ミズノエタツ・・・1772年の記録)
①五月三日朝四つ時(午前10時)大地震があった。大地が激しく揺れ動き山々が崩れた。湯田村の専駄という人の親父さんが、「おろせ倉」の山崩れに遭って亡くなった。大地は夥しく破壊され、所々大きな損害があった。暮れまでに六七度も揺れる。五月十三日四つ時(午前10時)地震、暮れまでに五度揺れる。十四日夜四つ時(午後10時)大地震。六月九日地震。六月十四日地震。
②八月二五日 昼星一つ見える。昼日中に見える星は、明るさ、大きさは夜に見える星の倍に違いない。「草井沢本」には「九月十四日にも昼星一つ見える」とある。
③この年凶作。下通り地域は種無し。「草井沢本」には「九月十九日から二十日まで岳通り(高山下の地域)に雪降る。大不作になり、所により一円種なし。」とある。地震と不作に悩み苦しんだ年であったことが分かる。
④十二月二十四日 子の刻(夜12時)家の中まで明るくなる。不思議な現象である当時の家屋は明かり窓も少なかったと思われるが、それでも家の中まで明るくなったのは、何によるか。不思議現象である。
⑤この年、小田嶋重治郎様御給人となる。(御給人・給料を受ける役人)
⑥三月二十七日 越中畑番人瀬川左五右エ門、九月二十六日西嶋善右エ門。
⑦この年、二月江戸表大火(江戸行人坂の大火)によって、南部藩御屋敷焼失したので、収入額百石に付、三両(1両は現代の給料からの感覚では30万円・現在の米価からすると55,555円・1両は4千文として、1文50円で計算すると二十万円となる「武士の家計簿」)の見舞金を出す。「下幅本」のみに記録されている。(「田沼意次老中となる」年表)
安永二年 癸巳(ミズノトミ・・・1773年の記録)
①三月閏あり。(「巣郷本」のみ「二月閏」とある)
②五月十二日より六月十四日まで日照り続く。(「巣郷本」のみが「五月十一日から・・」となっている。)六月二十四日雷雨があったが、八月まで雨が降らなかった。(「草井沢本」には、「六月七月八月まで雨降らず、風吹かず、夜昼ぬくく・気温が高い日が続いた」とある。)
③九月三日 大雨降り洪水となった。この年、蝗(エナムシ)が多く発生した。(漢字辞典では「コウ・オウと読み、いなご・いなむしのこと」とある。沢内年代記では「エナムシ」と読み仮名がつけられている。イナゴではなく、トビイロウンカ・セジロウンカやツマグロヨコバイ・イナズマヨコバイ等の稲の害虫と思われる。)
④盛岡より御倹見(ごけみ「作柄を検査する役人」)山口紋右エ門、上関友右エ門が来られ、新町の小田嶋重助が同道して大石地区まで調べられた。下通りの田は残らず収穫無しであった。畑作は2%から7%止まりであった。(「草井沢本」には「御倹見衆が大石まで来られた。稲を持って行って見てもらった。大石まで来られたのは、上関友右エ門様と小田嶋重助様であった。田は残らず無し。畑は2%から6、7%止まり。虫喰いが多く不作になる」と記録されている)
⑤東門跡方(東本願寺・僧)ひえんの衆(建築に関わる人々)まで網代の乗物(屋形の表面に網代を張った高級な乗り物)に乗ることが許された。太田にある碧祥寺は東本願寺に属するので、住職は乗り物(駕籠)に乗ることが公認されたということである。
⑥閏三月二十日 越中畑番人澤田市郎右エ門、九月七日新田目重蔵。
⑦御代官 黒沢治右エ門
安永三年 甲午(キノエウマ・・・1774年の記録)
①八月一日 日蝕。(「下巾本」「草井沢本」のみ記録)
②新町の高橋定之助が御給人となった。高橋武次右エ門、太田村久保弥市右エ門は御与力(武士の中の一階級・武士の下働き役)となった。
③田畑の作柄は半作であった。(「草井沢本」には「半作の中で、沢内中通りはよし。正月五日五つ時・午後八時地震。二月二十五日地震。時々地震。四月十三日より五月八日まで日照り。風が吹き水不足となった。春より五月中時々風吹き、六月土用の内寒気があった。草木の花多く咲いた。まんさく、ひがんざくらが多く咲く。ぶなぐるみ多くなる。総じて木の実多く稔る。疫病はやり病人が多い。世の中悪し。」とある。)
④三月二十九日 越中畑番人猿賀久太、九月二十九日伊藤所市郎。
⑤御代官 沢里重兵衛。
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