5479 辞めない小沢のトラウマ 渡部亮次郎

小沢一郎の政治生命は、カネを巡る検察審査会の「起訴相当」により風前の灯となっている。幸いにも形式的に過ぎない民主党代表の鳩山由紀夫である以上、党内で、表立って幹事長辞任を要求する者はいない。
そこで検察審査会が「起訴相当」の決議を発表した27日、時を置かず「続投」を表明、強引なところを見せた。強引に動かなければ政治生命を失うという危機感に迫られているからである。マスメディアはそこを解説しない。
「政治家はポストこそが権力。そのポストを手放せば東京地検は必ずや逮捕しに来る」と信じて疑わないのだ。裏付けるように、親分田中角栄も金丸信もともにポストを手放した途端に逮捕され、やがて死を迎えた。
特に金丸の出処進退にすべてかかわった小沢である。トラウマ(心の傷)になっている。「初めは罰金20万円で済んだものが、自民党副総裁を辞めた途端、地検が逮捕に来た。
オレも幹事長を辞めたら地検が何を仕掛けてくるか分かったもんじゃない。辞められない。辞めないと鳩山が総辞職に追い込まれる。民主党が参院選で負ける。だが、そんなこと知るか、いまや己を守る専一だ」。
小沢のトラウマとなっている「金丸信逮捕」は1993年、今から17年前。現役の政治記者で、これを取材した体験者は無いだろう。ウィキペディアに頼ろう。
<1992年8月、朝日新聞の報道により金丸信は東京佐川急便から5億円のヤミ献金が発覚。同年8月27日に自由民主党本部で緊急記者会見を行い、副総裁職の辞任を表明し、事態の収拾を図った。
しかしこの記者会見は綿貫民輔幹事長の外遊中に行われただけでなく、竹下派経世会の佐藤守良事務総長が独断で仕切って行われたものであった。
当時、自由民主党総務局長を務めていた野中広務はこの日、たまたま党本部に出勤していて金丸の緊急記者会見が行われることを知り、驚いて副総裁室に駆け込み、金丸と佐藤に「(綿貫)幹事長不在で、(副総裁の進退に関わる)記者会見をやるのはおかしいではないか。中止してもらいたい」と迫ったという。
しかし記者会見は行われ、宮澤喜一政権に大きな衝撃を与えることになった。
佐川問題を巡る竹下派内の対応は裁判で徹底的に戦う事を主張した小沢一郎に対し、梶山静六は略式起訴での決着を主張するなど二分する形となった。
小沢戦略なら論理は一貫しているが長期的な体力が必要で党のイメージダウンも長く続くことになり、梶山戦略は短期で決着がつくように見えた。
しかし、結果的に両者とも世論の動きを読みきれていなかった。信じられないことだが金丸本人は上申書を提出するまで弁護士を立てていなかった。後に担当することになる弁護士は金丸辞任会見をテレビで他人事(ひとごと)のように見ていたと語っている。
当初の対応を小沢、生原秘書、佐藤守良に任せた結果、時効がかかっていた時期を見誤った。浜田幸一の著書によると、梶山が短期決着で入れ知恵をしたかのごとく記述されているが客観的ではない。
結局、対応に小沢、梶山の二股をかけたことにより両者の対立は決定的なものになり、派閥は分裂へと進んでゆく。
東京地方検察庁特別捜査部は金丸に事情聴取のための出頭を求めたが、金丸はこの要請に応じずに政治資金規正法違反を認める上申書を提出するにとどまった。
結局、東京地検は金丸に事情聴取せずに1992年9月に同法違反で略式起訴し、金丸は東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。
逮捕もなく事情聴取すらしないというこの決着に、地検は国民から凄まじい批判を受け、検察庁の看板にペンキがかけられた。当時、札幌高等検察庁検事長だった佐藤道夫が『朝日新聞』に検察の対応を批判する読者投稿をし、異例ともいえる身内の検察からも批判的な意見が公にでた。
刑罰の軽さに批判が大きかったものの前科一犯が確定したため、叙勲を受ける資格を失った。こうした世論の反発の強さから、金丸は10月に衆議院議員を辞職。竹下派会長も辞任することとなる。
一方、東京国税局は、金丸信の妻が死亡した際に受け取った遺産に着目、日本債券信用銀行(日債銀。現あおぞら銀行)の割引金融債「ワリシン」の一部が申告されていないという事実を突き止めた(日債銀内では、金丸を“蟷螂紳士”のコードネームで呼び、申告漏れに協力していた)。
1993年3月6日、東京地検は金丸本人と秘書を任意に呼び出して聴取を行い、同日脱税の容疑で逮捕。後に、自宅へ家宅捜索を行ったところ、数十億の不正蓄財が発覚する。捜索の中、時価1千万円相当の金塊が発見された。
”金丸が訪朝の際、金日成から受領した無刻印のもの”と風評されたが、実際には刻印のあるフォーナイン(純度99.99%の金)であったとされる(朝日新聞記者の村山治『特捜検察VS金融権力』)
このフォーナインは「麻原彰晃が上九一色村の本部に隠し持っていた金塊と、刻印番号が接近している」との噂もあった。
これがとどめとなって同情論は消え、権威は地に堕ちた。金丸は、来るべき政界再編の軍資金であると述べたというが、真相は不明である。
逮捕後の自民党の会報などによると、党員の中では、金丸の蓄財動機は来たるべき新党結成の資金であるという概ねの共通了解が出来ていた。少なくとも、小沢一郎及び党大会などでは、金丸の行動が個人の私欲ではない事は共通の認識であった。
逮捕されて2年後あたりから金丸の体調は持病の糖尿病により悪化し、左目は白内障によりほぼ失明しながらも、本人は最後まで裁判を続けるつもりで月に1度から2度、裁判のために甲府市から東京地方裁判所へ通っていた。
しかし、金丸のあまりの体調の悪化に心配する家族の申し出により1996年3月に裁判は停止し、その1週間後の28日に金丸は脳梗塞で死去した。満81歳没>(敬称略)
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