5491 昭和33年の流行歌手  渡部亮次郎

2010年4月29日未明のラジオが「昭和33(1958)年の流行歌10曲」を放送したが、出た歌手10人のうち3人しか生きていない事に改めてびっくりした。
(1) からたち日記 島倉千代子(存命 現役)
(2) 夕焼けとんび 三橋美智也(享年65)
(3) おーい中村君 若原一郎(享年58)
(4) こいさんのラブ・コール フランク永井(享年76)
(5) 銀座の蝶 大津美子(存命 現役)
(6) 風速四十米 石原裕次郎(享年52)
(7) 三味線マドロス 美空ひばり(享年52)
(8) ふるさと列車 青木光一(存命 現役)
(9) 好きな人 藤本二三代(享年63)
(10) 居酒屋 春日八郎(享年67)
昭和33年は大学を卒業し、郷里の秋田県で放送記者を始めた年。既に居酒屋でかなり(1升は軽かった)日本酒を飲んでいたが、事件に追われて(他社の先輩に騙されたり、からかわれたりもして)忙しく、歌を聴いたり、歌ったりする機会は皆無だった。
当時カラオケ装置はまだ発明されてなかった。唄の伴奏は専ら「流し」の兄ちゃんたちだったが、3曲100円の100円が惜しくて呼べなかった。
間もなく仙台に移って正式にNHKの職員となったが、歌を歌ったり聴いたりする暇はなかった。ただ6年先輩記者の高野悠(ひさし)さんが「からたちの花」をがなっていた。今になってみると島倉千代子の歌だったわけだ。
だから昭和33(1958)年の歌は、あの年ではなく後年、多分、東京政治部へ転勤した東京オリンピック以降に耳にしたものだろう。ただし三橋美智也だけは大学在学中、田舎で公演を見た。彼は後年、糖尿病を発症。合併症が悪化してしんだ。65才は、いまでいえば若死にだ。
春日八郎は本名が私と同姓。福島県会津坂下町出身。ここからはやはり若死にした作曲家猪俣公章が出ている。ただし交流は無かった。理由は知らない。
春日からは参院選に出たいという相談を受けたことがあって、後に首相になる宇野宗佑に繋いだが、話はうやむやになった。
裕次郎、ひばりも若死に。
藤本二三代(ふじもと ふみよ、本名:三谷綾子)。29日の放送では実の母子のように言った。間違い。1937(昭和12)年生まれ。父親の再婚相手が歌手の藤本二三吉であり、実の母娘ではない。
二三代が歌手を志した際、芸能界の厳しさを知り尽くしている二三吉は反対したが、二三代の熱意に折れ熱心にサポートした。二三吉の力添えもあり、作曲家の吉田正に師事し、1956(昭和31)年にビクターから「花の十九よさようなら」でデビュー。
1957(昭和32)年11月発売の「夢みる乙女」、1958(昭和33年)11月発売の「好きな人」、1960(昭和35)年12月発売の「花の大理石(マーブル)通り」がヒット。この3曲とも、吉田正が作曲している。
NHK紅白歌合戦に4回連続出場という実績を残した。1961(昭和36)年には岩下志麻主演の映画『あの波の果てまで・3部作』(松竹)の主題歌も担当した。
最後のレコードは、1973(昭和48)年発売の「二人の北新地」。2001(平成13)年3月28日、大動脈解離で急逝。享年65(満63歳没)。娘に歌手の藤本じゅりがいる。(この項のみ「ウィキペディア」)
フランク永井は宮城県の出身。昭和40年ごろは目黒区の元競馬場で隣組だったが、1度も会ったことは無い。夫人と不仲になる出来事があり、首をつり損ねて脳をやられ、不幸な晩年だった。
若原一郎はNHKのど自慢の出身にしては楽譜が読めた。張りの有る美声で一世を風靡したが、やはり若死にした。(敬称略)
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