龍馬が幕末維新の「明」なら、同じ土佐藩出身の岡田以蔵は「暗」だろう。二人は青雲の志を抱いて国を後にし、同士として交際したが、龍馬は「維新の奇才」として讃えられ、以蔵は「人斬り以蔵」として軽侮され、没後145年の今でも以蔵を讃える人は少ない。
龍馬は天保6(1836)年、豪商・郷士に家に生まれ、以蔵は天保9(1838)年、足軽・郷士の家に生まれた。生家は近所だから二人は遊び仲間だったろうか。小さな頃から以蔵は龍馬になついていたかもしれない。
坂本家は金貸しもしており、たいそう裕福だった。岡田家は貧しかったから、坂本家から借金をしていたかもしれない。二人は生まれながらにして明暗があった。
龍馬は、<嘉永元(1848)年に日根野弁治の道場に入門して小栗流剣術を学び、非常に熱心に剣術に精励し、5年の修業を経た嘉永6(1853)年に「小栗流和兵法事目録」を得、その年に剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。江戸では北辰一刀流の千葉定吉道場の門人となる>(ウィキ、以下同)
3年後に以蔵も江戸へ出る。<武市瑞山(半平太)に師事し小野派一刀流剣術を学ぶ。武市の門を叩く前にも、我流ながらかなりの剣術の腕前であった。安政3(1856)年、武市に従い江戸に出て、鏡心明智流剣術を桃井春蔵の道場・士学館で学ぶ>
武市半平太は龍馬の朋友である。文久元(1861)年、武市は「土佐勤王党」を結成し、龍馬、以蔵ともに加盟した。
過激派の志士といっても、弁舌のたつ思想家・策士・政治家・戦略家タイプと、その下で突撃するだけが才能という兵卒タイプがある。武市や龍馬は前者、以蔵や小生は後者で、少数の前者が圧倒的多数の後者の「猛」を引き出して政戦を戦うのだ。
二人はそれぞれの才能に磨きをかけていく。龍馬は国事に奔走し、歴史の表舞台へ飛翔し、以蔵は最強の殺人マシン、「天誅」のターミネーターとして歴史の裏舞台へ潜んでいく。
龍馬にとって土佐の高知は狭すぎた。文久2(1862)年3月に脱藩してからの龍馬の活躍はあまねく知られていることだから繰り返さないが、勤皇から佐幕まで華やかな人脈をつくり、勝海舟や西郷隆盛などの密使として薩長同盟の周旋に成功し、倒幕維新へと歴史を大きく回転させた。
一方、以蔵は師匠であり勤皇党のリーダーである武市の指示を受けて「幕末四大人斬り」への道を突進していく。彼のかかわったとされる「天誅事件」、かくの如し(ウィキによる)。
文久2(1862)年8月、井上佐一郎暗殺。
文久2(1862)年閏8月、本間精一郎暗殺。
文久2(1862)年閏8月、宇郷玄蕃頭暗殺。
文久2(1862)年閏8月、猿の文吉(ましらのぶんきち。「目明し文吉」
とも)暗殺。
文久2(1862)年9月、京都町奉行所四与力(渡辺金三郎、森孫六、大河
原重蔵、上田助之丞)暗殺
。
文久2(1862)年10月、平野屋寿三郎、煎餅屋半兵衛生き晒し。
文久2(1862)年11月、多田帯刀暗殺。
文久3(1863)年1月、池内大学暗殺。
文久3(1863)年1月、賀川肇暗殺。
あまりにも血生臭くて吐き気をもよおすほどだ。7ヶ月間で11人を屠(ほふ)っている。24歳の青春の1年間を人殺しで過ごした。
文久3年1月を最後に暗殺が止んだのは、武市が失脚したためである。土佐藩の事実上のオーナーである山内容堂の怒りを買ったのだ。
武市と勤皇党の失脚は以蔵にとってよかっただろう。無聊を囲っていた以蔵に声をかけたのは、単純な尊攘主義から脱皮し、倒幕開国へ傾斜していた龍馬だった。龍馬は勝海舟の門人となっていた。
「岡田君、勝先生の警護をしてくれないか」昨日まで尊攘激派として開国派を殺しまくっていた以蔵はその日から開国派の巨魁、勝海舟の護衛をするようになる。イデオロギーがないから以蔵はふたつ返事である。「分かりました、引き受けましょう」
龍馬の懐の深さもすごいが、開国派を震え上がらせていた殺人マシンを、「そうかい、それじゃあ警護を頼もう」と引き取った海舟の度胸、度量の大きさもすさまじい。早速、以蔵の出番が来る。
文久3年のことである。3人の暗殺者が海舟を襲ってきたが、以蔵が1人を切り捨て一喝すると残り2人は逃亡した。その後、勝が「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよからう」と諭したが、以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまっていましょう」と返した。勝は「これにはおれも一言もなかったよ」と苦笑している(自伝「氷川清話」)。
<中浜家の家伝(中浜博『中浜万次郎 -「アメリカ」を初めて伝えた日本人-』によると、岡田以蔵はジョン万次郎の護衛も行っていた。勝海舟が自分の護衛をした岡田の腕を見込んで万次郎の護衛につけたという。
万次郎が建てた西洋式の墓を参りに行った時、4人の暗殺者が万次郎を襲ったが、以蔵はその4人以外に伏兵が2人隠れていることを察知して、万次郎にむやみに逃げず墓石を背にして動かないように指示し、襲ってきた2人を切り捨てた。残った4人は逃亡した>
11人を殺し、2人の要人の命を守った以蔵。吉田東洋暗殺・京洛における一連の暗殺について土佐藩は厳しく詮索し、以蔵は慶応元(1865)年5月11日に打ち首、晒し首となった。享年26。
以蔵にさんざ汚れ役を命じながら「あの阿呆」と侮蔑し、勤皇党の名簿から以蔵の名を削るということまでした武市も同日、切腹。享年37。
2年後の慶応3年(1867)11月15日、龍馬は刺客に襲われ即死した。享年31。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
コメント