先日、元赤軍派塩見孝也議長から「遺言状」がメールで送られてきた。といっても彼が亡くなったわけではなく、4月24日に都内で「生前葬」が営まれ、それを終えた後の心情を関係者に送ってきたものだ。
塩見元議長が一世を風靡した(?)のは、はるか40年前のことだから、彼を産んだ時代背景をおさらいしておく必要があるだろう。これまでにも何度か本メルマガで書いている。塩見とは何者で連合赤軍と彼の関係は?あるいは「日航機よど号ハイジャック事件」「拉致事件」との関係を抑えておく必要がある。
そのことを「革命ごっこの記録」http://www.melma.com/backnumber_108241_4042278/で大雑把に、書いた。で、その塩見氏の遺言状である。骨子をまず紹介する。
<僕は赤軍派議長として実行した軍事至上主義の武装闘争路線を清算する事を改めて宣言します>
彼は、70年安保前夜の大衆闘争に焦燥感を募らせる。航空機をハイジャックしてキューバか北朝鮮で本格的な軍事訓練を受け、日本に帰って革命を実現しようと計画する。ところが、計画実行直前に治安当局に察知され、東京・駒込のアジトを出たところで逮捕される。
が、残る“同志”9人が2週間後(‘71.3.31)、日航機「よど号」をハイジャック、北鮮に飛びこむ。このうち何人かが日本人拉致事件に関与したと疑われている。塩見がシャバに出てきたのは20年後(‘89.12.27)だった。彼の言う「武装闘争」はこのことを指しており、これを改めて「間違いだった」と認めているのだ。
<いわゆる連合赤軍事件は、僕が獄中にいる間に発生しました。連合赤軍は赤軍派ではありません。永田(洋子:死刑判決が確定)さんらの“私党”といえ、この私党の中で、反対派を“粛清”する痛ましい事件が生じました>。
この事件で12人がリンチ殺人の犠牲となった。<僕が仮に外にあって、指揮を執っていたとすれば、断じて同志殺しはやらなかった>といわゆる一連の連合赤軍事件について、自分には直接的な責任はないと述べている。しかし<赤軍派自体が軍事路線に立っていた以上、事件が発生する可能性はあったといわなければなりません。
この可能性という点につきましては、僕が全面的に責任をとらなければなりません>としているが、間接的な責任だけしか認めていない。<「同志を殺す」ことは、僕の体質にもともと合いません>とも言っている。
彼は現在、大型スーパーの駐車場の管理人をしている。時給950円。<そこで、労働の喜びや賃労働の苦しみをいくらか知り、このなかで(社会の矛盾は)自分一人でしか解決できない、と傲慢にも勝手に思い込んでいた課題でしたが、民衆がより有効に団結し、闘えることを確信しました><学生運動とは全く違う労働者の団結の仕方をいくらか、学びました>と総括している。
「生前葬」は塩見議長が路線を転換したことをアピールするイベントというわけだ。彼の思想遍歴の「終点」だと位置づけている。“遺言状“は、<この地平に立って、僕が提唱した軍事至上主義の小ブルジョア学生大衆中心の武装闘争路線のために、被害を受け、亡くなったり、獄に在って、死刑攻撃を受けたり、無期刑を受けたり、重刑攻撃を受け続けている仲間、外国に渡って長い年月、亡命を強制されている仲間達を始め、今も苦しみ続けている元同士達、友人・知人の方々に衷心からお詫びいたします。どうか、許してください>と謝罪の言葉を述べている。
「生前葬」の会場は、東京御茶ノ水の「総評会館」だった。“極左”がただの“左翼”に“転向”したということだろう。支援者200人が参列し、香典は280万円にのぼった。「香典」は運動のためのカンパとなるという。彼は今でも「革命家」を自称して「沖縄支援・憲法9条改正反対」をスローガンとする運動を展開しているが、何のことはない、今やそこらにいる大衆行動、“左翼用語“でいう一般大衆を動員する大衆運動、カンパニア闘争に駆けつける、ただのおっさんになってしまった。
今なら現政権党の中に生き残っている旧社会党左派や連立与党の中の何人かとも話が合うかもしれない。60年代末の第1次羽田事件から70年代初めの浅間山荘事件まで、30代の半ばの数年、「安保闘争」を追っかけ、つぶさに取材してきた私としては、塩見元議長はその時代を象徴する人物の一人である。遺言状は、事実上、その終焉を告げるものであった。塩見元議長は今週末、69歳になる。近影は↓http://www.youtube.com/watch?v=YH3PrkkQTRQ
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5582 元赤軍派塩見孝也議長の遺言状 石岡荘十

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