5587 「沢内年代記」を読み解く(十四)  高橋繁

天明元年 辛卯(カノトウ・・・1781年の記録) 
①五月閏あり。米をはじめとする農作物の出来具合は悪かった。下作。課税歩合は安永四年の未の年より一歩(1%)安くなった。入石(他領地・秋田藩や伊達藩から買い入れた米)は一升あたり三十文(900円から1.500円)であった。「草井沢本」には入石は、清水カ野の久左エ文の家に入る。(取り扱った)と記録されている。
②五月二十七日大洪水になり、湯本の山室橋が流れ落ちた。橋架け替えの時、紛失して十四年もなる湯本の薬師如来像が、湯田の佐吉の子、巳之助という者によって山室の淵より拾い上げられた。(神社に奉納された。)
③仙台藩の抱え力士に「伊達ケ関」という日本国内では強くて有名な関取がいた。その関取を投げとばし、日本一と呼ばれた南部藩の抱え力士「岩見潟」が亡くなった。
④御代官 日戸杢、台十郎兵衛。御買上米(藩が買い上げる米)一石(150kg)につき一斗一升六合(17.4㎏)の税が課せられた。機械的に計算すると11.6%の課税率である。
⑤「草井沢本」には、「ネズミに喰われ大不作になる。」「地震のあった日・正月中時々地震、二月十三、十四、十六日、三月十四日十二時、午後八時大地震、二十五日朝十時、四月十六日、五月五日晩、十七日、六月十二日」地震についての記録が多い。「草井沢本」の記録者は地震について敏感な方のように思われる。
「毎日雨降り、風が吹き、五月二十七日大水出る。川尻まで水かさが上がった。助右エ門家の前まで溢れ、古瀬屋の安兵衛、舟場の小治家の二軒は流されてしまつた。夏の間中水が多かった。秋風吹く(台風のような強い風と思われる)。鮎、鱒は遡上しなかった。思いのほかネズミが多く、田んぼは畦の近くの稲が残らず喰われ、さらに田んぼの中まで行き、稲を噛み切り溜め、散らす始末であった。」(ネズミが田んぼの稲を喰うということは、聞いた事がない。水が多く、冷夏であったからネズミの天敵である蛇がおらず、ネズミが増えたのかも知れない。)
「畑の作物は、大豆、小豆は春の生え始めから喰われ、稗、ソバも共に秋まで喰われ、種が採れない人々が多かった。」「寒の内(立春前のやく30日間)、雨は少しも降らなかった。」(西和賀地方には「寒九の雨」といって、寒に入って九日目に雨が降ると作物良くなるいう俗言がある。)
「課税歩合は、利助は名帳(みょうちょう・帳簿上は)14%、七右エ門名帳は14%、長八名帳は13%であった。」(この年、初めて「名帳」なる言葉が記されている。帳簿上の歩合で実際の納税歩合は少なかったということなのか。現物では納入困難な歩合なので、残りは帳簿記載されたということなのか。解らない。帳簿上の納税だけで済ましたということは、絶対あり得ないことだけは確かである。) 
「御買米五百五十駄(沢内通り全体での買い上げ量・約57.75t・1駄を米7斗として計算)御買い上米一石につき一斗一升七合(「下巾本」のきろくより1合多くなっている)値段は一石(150kg)あたり一貫六百文(48000円から80.000円)。」
天明二年 壬寅(ミズノエトラ・・・1782年の記録)
①米をはじめ作物の出来具合は下作。(例年の収量の半分以下であった。)
②課税歩合は昨年(天明元年)より一歩(1%)安くなった。御代官台十郎兵衛、日ノ戸杢様は病死されたのでその代わり田鎖忠治様が来られた。
③御買上米 一石(150kg)に付き九升七合(14.55㎏)の課税であった。例年は米一石にたいして一斗以上の税が課せられたいたが、この年は一斗を下回った。単純計算では9.7%である。下作、不作続きで、収穫量が少なかったのだから当然といえば当然である。
④「草井沢本」には、[月蝕のあった日]<二月十六日全体の四分の一が欠けた。八月十五日全体の八分の一が欠けた。>[地震のあった日]<七月十六日朝、二十日晩、八月十日晩、十一日朝、十四日、十五日、九月も時々地震>「春より秋まで水は多く、和賀川も本内川も水枯れすることはなかった。鮎、鱒は遡上しなかった。課税割合は去年と同じで14%利助、七右エ門、13%長八。畑の収穫にたいしては9%が利助に課せられた。
御買上米は沢内全体に五百駄(1駄の量7斗として・52.5t)割り当てられた。一石につき九升七合の課税があった。入石(他藩から買い入れた米)は一升(1.5㎏)に付き三十四文(1.020円から1.700円)であった。入石は小繋沢の徳兵衛に入り取り扱った。」とある。入石については「肝入りに入る」という記述多かった。徳兵衛は小繋沢の肝入であるように思われる。
天明三年 癸卯(ミズノトウ・・・1783年の記録)
①大飢饉にて、御毛見(作柄視察・検査)に中村孫左エ門、藤井勇蔵の二人が来られた。御代官 台十郎兵衛、田鎖忠治。
②安永六年に「御制札騒動」(高札打ち壊し事件)の罪で罰せられていた六人が七年目の十月に釈放された。全国的な大飢饉になり、牢舎の管理も大変だったに違いない。
③青絶つ(稲が成長せず、枯れそうになっている)で、稲刈る前に雪が降った。沢の入り口や小沢にある田の稲は刈取りしなかった。種籾は秋田から買ってきた。
④村人は、ワラビの根を掘り、根から澱粉を採って命を繋いだ。
⑤麻種(麻は繊維を取って、衣服の原料とした。自給自足の生活者にとって不可欠の植物であった)が不足し、一升百四十文(4.200円から7.000円)もした。
⑥四月十八日大嵐。暗闇となり大「雪丸」(アラネと振り仮名がある・氷・特大の雹)が降った。「下巾本」には「シガ(氷)降る」と記述されている。深さ三四寸(1寸は3.3cm・13cmから14cm)程つもる。小鳥、蝶その他虫の類多く撃ち殺される。
五月一日(一日としているのは「巣郷本」のみ。他は二日となっている)大雹降りまわり六寸ほど(約20cm)積もる「巣郷本」。「下巾本」には「五月二日栃の実のような大きさの雹降る。その深さ六寸ある。」と記述されている。雹の大きさは誰もが初めてみる大きさであったに違いない。小鳥も撃ち殺されるほどの雹であれば、人々は恐怖で鳥肌たったに違いない。
⑦六月二十九日夜 灰、土とも、砂とも知らぬものが降ってくる。「下巾本」には「苗代は大きく破損された。六月二十九日白き虫降る」と記述されている。おそらく約2万人の死者を出した浅間山噴火による火山灰と思われる。天明飢饉の一原因といわれている。
⑧「草井沢本」には「二月十六日月蝕、月全体が隠れた。大々不作。種籾なし。秋田仙北より少々、花巻近在より少々買ってきた。一升つき六七十文(1文30円とすれば2.100円、1文50円とすれば3.500円)もした。しかしながら、この種籾は粃(しいな・実のない殻だけの籾・実らないしなびた籾)であった。」買ってきた種籾は種としてではなく、食料として補うためのものであったことが解る。『ケガジ(飢饉)の時は、糠から、しいな米まで上等の食べ物だったドヨ(ということだ)』という古老の言葉か思い出される。
「南部、津軽、仙台、秋田仙北にいたるまで大不作であった。米の売買は一切あるはずがなかった。人々は思いの外多くの者が、飢え死にした。」《南部藩の如きは宝暦五年(1755)の大飢饉の時は、高二十四万八千石の内十九万九千七百石、八割の減収で人口三十五万八千人中、四万九千六百人約一割四分の餓死者を出し、空き家七千軒を出している。
天明三年(1783)の大飢饉の時は十八万九千石、七割六分の減収、餓疫死六万四千七百人で、一万五百余戸の空き家を生じている。この時は仙台領も同様の被害を受けている。・・・・「郷土の歴史ー東北編」ー(岩手は森嘉兵衛博士が担当されている)「宝文館」より》
「春より秋まで雨降り、風が吹き続いた。七月二十四日晩、八月三日朝、二十九日、九月一日に地震があった。九月二日朝霜降る。十月七日山々に雪が降り、八日の晩には家の前まで降り積もった。春より秋まで水が多かった。四月三日に種まき、五月二十一日に家の前田の田植えは終わった。二十二日は本屋敷の田植えが終わった。課税は14%利助、七右エ文。13%長八。畑の収穫には利助に9%課せられた。
 
天明四年 甲辰(キノエタツ・・・1784年の記録)
①米はじめ農作物の出来具合は上々のできであった。豊作であった。十月に作柄検査のための役人(御毛見)が通られた。御代官 台十郎兵衛、本宿弥惣右エ門。
②今年は米等の作柄は上の作であるが、去年の大凶作で人民の命は殿様はじめ御役人に専らまかされている。このような上作の年はめったになく、不作ばかり多く続いているのだ。(為政者にはしっかりしてもらわなければならない。)
原文は『当年作上之作ナレドモ、去ル大凶作ニテ人民一命ハキミ専ラニスル。作当分者マレナリ不作者斗(バカリ)数多し。』「キミ」は「殿様」「御上」「役人」を意味しているとのことである。なぜ「殿様」「御上」「役人」と明記しないのか。明確に記すことは不敬・不忠にあたり、あるいは謀反にあたると取調べ吟味されると責任をとり、死なねばならなかった。「キミ」と記述することによって、トウモロコシのキミ、卵のキミとか言い訳が成り立つからではないかといわれている。このような記述表現は全国的にあったともいわれている。
③米一升(1.5㎏)は百三十文(3.900円から6.500円)。大豆、小豆は一升六七十文(2.100円から3.500円)。全て穀物は大高値であった。秋田から買ってきた「ユリコ」(屑米・粗悪な米)一升二十三文(630円から1.150円)、糠一升は二十文(600円から1.000円)、ワラビの根から採ったワラビ粉一升百四五十文(4.500円から7.500円)、大根一表(かます=わらむしろを二つに折って作った袋に入った大根と思われる。大根15本ほど入れることが出来たという)百五十文(4.500円から7.500円)、葛の根(澱粉をとることができる)一貫目(3.75㎏)四十文(1.200円から2.000円)、大根の乾葉(大根の葉をわら縄で縛り乾燥したもの、冬の保存食。野菜不足を補う重要な食材であった。一連は大根10本から20本分の葉であったという。時期と地域によって一定していなかったともいう)二十三文(690円から1.150円)。総じて食物類・食料品の高値の売買は無限に続くようである。
④新町の長作という者の子どもがお蔵(年貢米の収蔵庫)に入り、米を盗み、夫婦子ども共に川に沈められた。処刑には、残酷以外の刑はないのだけれども、子どもも親も飢え死にするよりはるかに残酷な思いで死んでいったに違いない。
⑤仙台角銭始まる。この年の記録は「下巾本」による。《仙台藩における鋳銭は1726年(享保11年)に幕府に願い出許可されてから始まる。何回か禁止と許可を繰り返している。この年は7月から鋳銭を再開された。銭は「撫角銭」と呼ばれ角が丸みで全体として四角な鉄銭「仙台通宝」であった。領内限り通用として認められた。「1974年 石巻鋳銭場展・石巻市図書館創立92周年記念・石巻青年会議所創立10周年記念ー資料」による。》
⑥「草井沢本」【閏 正月あり。7月1日日蝕、2割欠ける。15日月蝕6割欠ける。正月1日より4日まで大吹雪。5日雨降る。18日雨降る。28日雨降る。閏正月(2回目の正月)1日、2日天気良し。3日雨少し降る。年内(昨年末)より正月中、閏正月まで大雪が降った。正月・閏正月とも思いの他天気が悪かった。2月6日、16日、17日に雨降る。その後は雨や風があったけれども雪は少しも降らなかった。3月1日より時々雨降る。6日、7日雨風が吹き荒れ大水が出た。
川の水位は川巾を越え川尻に上がり、湯田橋の上まで上がった。川という川の橋は残らず落ち流された。4月中、時々雷がなる。6月も時々雷雨があった。17日頃から29日まで日照りが続いた。30日は夜明けから昼まで風が吹き、昼からは雨になった。7月の天気はたいへん良かった。6日晩地震があった。12日、16日夜雷が鳴ったが雨は降らなかった。17日の天気は最高に良かった。
二百十日(立春から数えて210日目、現在の9月1日頃にあたる。台風襲来の時期)になり23日まで大日照りであった。28日夜10時頃地震があった。8月1日より3日まで風が強かった。9月7日(現在では10月中旬頃)の晩大岳(南本内岳・焼石岳・真昼岳・和賀岳などの高山)に雪が降った。13日の朝には家の前まで雪が降った。10月14日に降った雪は根雪(根がはえたように春まで消えない雪)となった。11月8日朝10時地震があった。
寒のうち28日雨が降った。12月8日雨降る。11日午後2時頃地震があった。天明3年の不作のため古米は1升150文から160文位(150文であれば4.500円から7.500円。160文であれば4.800円から8.000円)新米は130文から140文(130文であれば3.900円から6.500円。140文であれば4.200円から7.000円)もしたので、買えないので飢え死にした者が多い上、疫病も流行したので多くの人が死んだ。種もあり稲を植えることができた人たちは、水の取り入れ口の田までよく稔り、上々の出来であつた。種籾を手に入れることができなかった人たちは、稲田に稗を植えたが育ちが悪く、たいへん難儀した。家の前の稲田に稗を植えたがやはり苦労した。今年、稲を植えた人たちは上作で、水口の田もその他の田も収穫に差はなかった。】と記されている。
天明五年 乙巳(キノトミ・・・1785年の記録)  
①田は青田で、稲は実らなかった。作柄検査の御毛見が来て上納することになった。御代官 本宿弥三右エ門、坂牛吉右エ文。この年は凶作であったので人々(人民)はたいへん困窮した。米一升55文(1.650円から2.750円)大豆は大凶作で一升60文(1.800円から3.000円)もした。
②2月、山師(立ち木の売買、鉱山の採掘などをする人)の郡山太助、秋田湊の者が、船の帆柱に良いといって杉の大木を15本を伐った。その内の5本については証文を出さず、他の4本は傷つき材となった。この始末のための人足手間代150文宛て支払う。
③荒高(おおよそ収穫できそうな米の量。刈り取り前の米の量と思われる)一石につき米七升八合(約2.7㎏)を代官所から拝借し、15%の利息を加えて上納した。お蔵に米があったから出来たこと、人々の窮乏が想像される。
④「草井沢本」には【天明5年のこと。4月4日晩種撒く。5月4日晩赤い砂土(黄砂)降る。5月19日家の前の田に田植えする。昼より大雨が降り、大風が吹いて休む。20日、21日に家の前田植え終わる。22日、23日には本屋敷の田植え終わる。7月1日日蝕6分欠ける。12月15日月蝕5分欠ける。
大凶作であった。1月6日朝6時地震。午前10時また地震。6日、7日頃まで雪降り、風吹き天気は悪かった。12月30日夜8時地震、思いのほか長い時間ゆれた。秋まで水かさは多かった。1反歩当たりの取れ高は田畑ともに無し。種籾も無し。入石(他の領地から買いいれた米)は、肝入(村長)で取り扱い、1升52文(1.560円から2.600円)で入った。大豆、麻糸、粟、畑物の出来は悪かった。田畑とも作物は実らなかった。春の雪は大雪でなかなか消えなかった。雪の上に木の葉が開いた。梨、すももの木に実はつかなかった。栗とクルミは少し生ったが、実の入りは不充分であった。秋から疱瘡(天然痘の俗称)が流行した。】と記録されている。 
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