5634 「沢内年代記」を読み解く(十六)  高橋繁

寛政元年 己酉(ツチノトトリ・・・1789年の記録)  
①米、農作物の出来具合は下作。例年以下の出来であった。年貢課税割合は安永四年の割合より、三歩安くなった。
②御代官 野々村七右エ門、日戸善兵衛。
③御買上米高 一石(150㎏)につき一升(1.5㎏)余りの税であった。
④「草井沢本」
 ◎寛政元年になる。 4月15日に月蝕。10月1日に日蝕、6分欠ける。閏6月あり。田畑の収穫は半作(平年の半分の収穫)。
 ◎正月1日より毎日毎日雪降り、毎日雪掻き(除雪)をした。16日、17日は天気良し。その他の日は大雪が降った、正月中、寒気厳しく、川には氷が張り、飯や漬物まで凍った。
 ◎2月まで凍り、12日まで寒気が続いた。13日の晩には雨が降り、沢の川から大川(和賀川)までの氷は一度に融け流された。17日の晩は大雨が降った。18日は雪がふり、大風が吹いた。2月中の天気は悪かった。
 ◎3月3日大雪降り、大吹雪になった。14日からは上々の良い天気で、21日まで続いた。22日は風が吹き寒かった。23日大雨降り、増水した。土用(春の土用・1年に4回ある)に入ってからは天気は良かった。
 ◎4月3日昼から東風(やませ)が吹き、大雨ふる。4日朝まで風吹き、大水が出た。正月から4月まで雷がなかったが、10日午後4時ころ雷が鳴り、雨が少し降った。
 ◎5月13日雷、雨降る。28日雷があったが雨は降らなかった。
 ◎6月3日より田植え、5日には家の前田が植え終わった。1日、3日、11日、14日、27日と地震があった。14日、15日頃まで天気は良かった。それ以外の日は雨降り続きで悪かった。
 ◎閏の6月8日、9日と大雨降り、大洪水となり橋が流された。土用(夏の)中雨降る。15日より天気は良かった。16日午後4時地震があった。
 ◎7月11日雷、大雨降る。15日、16日大雨、大水出る。
 ◎8月12日朝霜降る。
 ◎9月19日初雪降る。21日太田八幡宮の銀杏の葉散る。22日雪少し降る。29日雪降る。
 ◎10月11日雪少し降る。この雪は根雪(春まで消えない雪)になる。(西和賀地方には、太田八幡宮の大銀杏の葉が散ってから、21日目に根雪が降る。という俗諺がある。この年の記録を見ると、当たっていると言える。)
 ◎11月5日の冬至前までは、雪は多く降らなかった。9日は大雪、「一おろし」(ひとおろしは、九州地方の方言で「半日」のこととある。)降る。12日天気上々。13日大雨降る。14日より大吹雪となる。
 ◎12月8日まで雪降らず。9日より12日まで川風(かわだし)吹き、大雪となり「はせ柱」(刈った稲を掛け干すための柱・約2mの高さ)がよく見えないほど降り積もった。雪多く苦労した。
 ◎穀物(原文は「石物」)安く、黒沢尻(北上市)では米1駄(105㎏)が1貫590文(47.70円から79.500円)であった。これは「安い」とは言えないのではないか。花巻では、そば1升が5文(150円から250円)であった。これは安いと思われる。
 ◎1反歩あたり収穫量の課税割合は、12%利助、七右エ門。11%長八。畑高(陸稲)の課税は 7%であった。
⑤「歴史年表」より《奢侈禁令・棄絹令を発し旗本御家人の負債を免ず。諸代大名に囲い米を命ず。5年間の倹約令を発する。ワシントンがアメリカの初代大統領となる。》
寛政二年 庚戌(カノエイヌ・・・1790年の記録)   
①米はじめ農作物の出来は中作。平年並みの出来具合であった。年貢課税の割合は安永四年と同じ割合を命じられた。
②御代官 日戸善兵衛、一方井九右エ門
③「草井沢本」・世の中、中作の上。米・農作物の出来は平年より少し良かった。
 ◎正月2日まで雪降り悪し。3日天気良し。4日より雪は少しずつ少なく降り、雪は深く積もらず、4尺(約1.2m)ほどの積雪であった。松の内の午後8時頃、西の空にお月様のような大きな星が出た。星が気流や気圧の関係で屈折して大きく見えたのか。実際そのような星がでたのか不明。自然現象は多彩で無限、解らない現象があっても不思議ではないように思える。11日午後8時過ぎ地震。夜中の2時には雷があった。
 ◎3月10日は八十八夜(立春から88日目)であった。21日朝、種蒔き(米)する。
 ◎4月6日雨降る。8日、9日天気良し。
 ◎5月7日に田植えを始め、9日には植え終わる。8日、9日、10日小雨降る。
 ◎6月23日雷雨降る。24日朝に大雨降る。28日晩には寒露が降りた。
 ◎7月5日夜中の2時頃より雷が鳴りはじめ、夜明けまで強く鳴り響いた。朝、雨が降った。7日の天気はたいへん良かった。10日雷があり、小雨降る。それより時々雷が鳴った。  
 ◎8月20日大雨、大風、大洪水になる。
 ◎9月12日地震があった。
 ◎10月4日より雪降る。6日地震があった。11日より15日まで大石では舟を造り、進水した。(原文では、「舟はぎ」となっている。なぜ舟造りの意味になるか。「舟はぐ」のナマリと思われる。「はぐ」は接ぎ合わせること・接着することの意味があり、舟造りでは水が浸水することのないように木や板を接ぎ合わせることが重点であるからと思われる。「はぎおろし」は「進水」と解釈されるとのことである)
舟は川の渡し舟である。舟造大工の日用代(技術代か)は4貫500文(135.000円から225.000円)。人足・釘・鎹(かすがい)・等材料費合わせて21貫83文(632.490円から1054.150円)であった。その内8貫文(240.000円から400.000円)は肝入(村長役)から下ろし、その他の費用は下通り地区1戸あたり160文(4.800円から8.000円)出し合った。5日に降った雪は消えずに根雪になった。大根堀も雪のしたから掘ることになり、たいへん難儀した。
 ◎12月18日から21日まで大雨降り、大洪水となる。大石の川舟渡りも出来なかった。東から降る雨で南本内川が増水した。
 《この年の「草井沢本」の記録者は、前年までの記録者と異なる人物によると思われる。理由は月日の前後が重複、錯綜していることである。「12月18日から21日まで大雨降り」と記録し、最後に「12月20日雪降る」と記されている。》
 ◎《「歴史年表」より・幕府、湯島聖堂での朱子学以外の異学を禁止する(寛政異学の禁)。オランダ貿易船の貿易額を1艘あたり60万斤に減額。江戸出稼ぎ人の帰村を奨励する。アメリカ・フランクリン没。イギリス・アダムスミス没。》
寛政三年 辛亥(カノトイ・・・1791年の記録)  
①田畑の作物の出来具合は下作。平年より悪かった。課税割合は安永四年の割合より二歩安くなった。御代官は去年と同じ、日戸、一方井の両人であった。
②御買上米高一石(150kg)につき八升(12㎏)の課税。米高百石十駄(107石=16.05t)の割り当てがあり、一石につき五合(1升の半分・0.75㎏)の税をさらに納めた。「百石十駄」は沢内全体への買上米割り当てと思われる。結局、一石につき一升五合の課税を納入したことになるのだろうか。
③公儀(殿様)は囲籾(かこいもみ・非常時の用意に籾を貯蔵すること。藩の囲籾、地域共同の囲籾、個人の囲籾があった。ここでは藩の強制的な囲籾と思われる)収穫高一石につき五合出すように命ぜられた。囲籾はこの年から始まった。以上は「下巾本」の記録。
④この年八月、川尻の佐吉が館村の人たちと館深沢の人たちが館深沢の山に出入りしているのはおかしい。この館深沢の山は東はヲロセ山と和賀川まで、西は平淵境の中山まで、南は小鬼が瀬川まで自分の土地であるとの証文書があると役所に申し上げたが、解決がつかず、四ヵ年も争っていた。
寅の年(天明二年1782)に槻沢の長四郎、川尻の勘右エ門を盛岡に呼び出し、館深沢の山は館深沢の住民の山に相違なしと仰せ付けられ、これで争いは済んだものとして押印の御証文を持参することになった。佐吉が争いに負けたのは数年の間、建議し取り調べをせずに館深沢の人々に自由に出入りさせたことである。また、自由にさせたのは佐吉の方に誤りがあったからだろうか。(この事件は「白木野本」のみに記録されている。)
⑤「草井沢本」3月16日 月蝕。10月7日廻戸川(まっとがわ)、鷲之巣川(わすのすがわ)に橋が懸かった。 ◎正月1日雪降る。4日朝地震があった。2日より7日まで天気良し。8日から14日まで雪降る。 
 ◎2月中天気悪し。
 ◎3月3日 大風吹きまくり、大荒れになり隣近所にも行き来が出来なかった。20日大風吹く。
 ◎4月1日雨降り。7日8日の朝まで種蒔き(稲)する。14日雷雨があった。15日朝6時頃地震があった。20日雷、大雨、大風吹く。28日雷、底鳴りにどうどうと鳴るが雨ふらず。30日雷あるが雨降らず。
 ◎5月1日天気上々良し。8日 困るほどの雷、霰が降る。15日朝6時に地震。29日朝地震があった。29日朝地震があった。この日より毎日雨降る。
 ◎6月18日、19日天気良し。27日、28日雷があったが雨は降らなかった。6月中天気 良し。
 ◎7月7日より9日まで天気良し。15日より17日まで大雨降り、大水出る。田の尻が大水で決壊した。
 ◎8月20日大風吹き、粟やソバは倒伏した。
 ◎9月4日、5日まで大風吹く(台風か)。粟、ソバの実は風で吹きこぼされた。大水出る。川端近くの畑は皆大水のため、決壊、あるいは冠水して収穫はなかった。それから15日までは天気が良かった。
 ◎9月27日 山々に雪降る。
 ◎10月1日初めて霜降る。6日より13日まで雨降る。田畑共に中作。
⑥『歴史年表』より・《松平定信・江戸に町会所を建て、七分積金の制を設ける・江戸の町人が負担した町人用の倹約を命じ、倹約分の二分を町人に、一分を各町で積み立て、残りの七分を毎年町会所に積み立てさせ、幕府も二万両を補助して、窮民救済・不時の災害にあてさせた。この政策は定信失脚後も続けられ、明治維新後東京府庁・市役所建設の資金に当てられた。》
寛政四年 壬子(ミズノエネ・・・1792年の記録) 
①二月閏あり。米・農作物の出来は中作。平年並の出来であった。課税割合は安永四年と同じ割合を仰せつかった。御代官 一方井九右エ門、大里所右エ門。
②御買上米高伊一石(150kg)につき一斗三升七合(20.55㎏)の課税があった。以上「下巾本」より。
③「草井沢本」作柄は中作の上。ソバ、豆(大豆)悪し。そのほかの作物はよかった。
 ◎御買上米は沢内中に500駄(1駄=7斗、1斗=15㎏、全部で52.5t)。1反歩あたりの収穫高にたいして1%の課税。高井一石に対しては一斗三升の税。米1升(1.5㎏)の値段は18文(540円から900円)であった。入石は1升(1.5㎏)30文(900円から1500円)であったる
 ◎正月1日より4日まで天気よし。その後14日まで雪降り。15日から17日まで天気良し。
 ◎2月4日朝6時地震。16日地震。18日地底からどうどと鳴る(地鳴りを伴う地震)。26日地震。その後毎日天気良し。
 ◎閏2月9日まで天気良し。12日大雨降る。大洪水で所々橋が落ち流された。閏2月も地震が2度もあった。
 ◎3月4日5日大雪、大吹雪で隣近所へも行くことが出来なかった。10日も大吹雪。28日は雪降りであった。
 ◎4月中天気良し。
 ◎5月は荒れ模様の天気であった。
 ◎6月24日より7月10日まで天気良し。
 ◎7月6日午前8時地震があった。この後地震のように「どうど」と地鳴りする。7日の晩は地震のように「どうど」と鳴り、10時ごろには「どかどか」と鳴った。9日の晩より10日の晩まで雨が降り、水かさが増した。7月中時々雨が降ったる
 ◎8月9日朝霜降る。19日霜降る。26日午後2時より夜10時まで雨降り、大洪水となる。28日霜降る。29日雷、雨降る。
 ◎9月12日晩より13日まで雪降る。白く積もる。14日雪降る。
 ◎10月6日晩地震あり。
 ◎11月中天気悪し。
 ◎12月14日、15日雨降る。19日雨降る。13日ばかりは天気良し。原文は次に「実に三十日はれ申候」と続くが、意味が読み取れない。何時から何時までの期間の30日晴れたのか、前後の記述がないからである。28日午後2時地震があった。25日、29日は天気が良かった。この年閏2月あり。
 ◎一反歩あたりの収穫高に七右エ門15%、長作14%の課税があった。
 ◎文治2年(1186)奥州平泉の秀衡が無くなってから、寛政3年で601年になる。《歴史年表には秀衡か亡くなったのは、文治3年(1187)となっている。寛政3年には604年経っているわけで計算が合わない。どのようにして年代を計算されたのか興味深いものがある。》
寛政五年 癸丑(ミズノトウシ・・・1793年の記録)  
①米・農作物の出来具合は中作。平年並みの出来であった。課税割合は安永四年の割合より二歩やすくなった。御代官大里所右エ門、七月に石亀七左エ門御免(免職)になり、代わりに箱石覚右エ門が来た。
②御買上米高一石(150kg)につき一斗三升七合(20.55㎏)の課税があった。
③「草井沢本」水田稲作は中作。畑作も同じであった。
 ◎正月7日大地震、午前10時より午後2時までゆれる。その後2月、3月、4月、5月まで時々地震があった。8月21日晩12時大地震があった。《この年から「草井沢本」の記録が4,5年間簡単な記録になっている。記録者が交代されてのか。何か都合があったのか不明。》
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