▲「もののあはれ」と日本人
日本人の死生観を決定づけた価値観は時代とともに変貌することもあれば、一千年の単位で変化しない普遍的習俗、文化価値もある。
本居宣長は「もののあはれ」と表現し、小林秀雄は「無常」と比喩した。万物は生々流転し、永久のものは無く『平家物語』のいう「諸行無常」の響きは「盛者必衰の理」となる。無常は釈迦が説いた概念である。
現代日本に歴史の風雪にたえてきた、この無常観が消えかけているのではないか。
GDPで中国にも抜かれた日本には失業が蔓延し、健全な精神が消え、かわりにニヒリズムが世を覆っている。ニヒリズムを虚無主義とだけ訳しては本来的意味からはずれるが、絶望より永久を目指し積極的に生きようというのが本来のニーチェの思想である。
宗教や迷信や迷妄な道徳にすがるのではなく、意思の力により人生を開くという姿勢が根本にある。
多くの日本人は虚無、絶望と誤解している。はるか以前から東洋には虚無の哲学があり、禅が栄え、なにかを超越する力を日本人は持っていた。特攻の精神もそうした文脈から生まれた。
中国語の没法子(メイファーツ)は「何をやっても仕方がないさ」という諦念を表現するが、日本ではこれまでそうした絶望的表現は希薄だった。中里介山『大菩薩峠』や三島由紀夫『天人五衰』にしても諦念と絶望の解釈とは異なり、無常の世界観が拡がる。
敗戦後、なにくそ頑張るぞ、連合国がなんだと焼け跡から立ち上がった日本人は戦争で死んだ人々のためにも一所懸命に歯を食いしばって艱難辛苦に耐え、子孫も増やし、新幹線を通し、東京五輪を実現し、やがて米国に迫る経済大国となってトヨタは世界一企業となった。「なせばなる」と人生への積極的な姿勢が随所にみられ、安保闘争も全共闘世代も元気があった。
▲共同体の連帯感が希釈化し精神の錯乱状態が出現した
経済大国を実現したあとの日本には明確な国家目標が消え、いたずらな福祉国家、各種保険制度が破綻の危機にあっても人々は国家に何を貢献できるかを一切語らず、ひたすら国家からむしり取るというさもしい精神に陥落した。
政治は民度に応じて、それなりのまつりごとのレベルに留まる。つまり、いまの国民にはこの程度の政治でも適当とされるのだ。基本の問題は共同体としての連帯感の希薄化と精神的堕落である。
与野党を含めた政党をいまや日本国家・民族の理想を糾合する共同体の代弁者と考えること自体に意味が薄い。タレント議員を添えて員数あわせだけを目標とし、基本の綱領だった改憲を言わなくなり、いや国家国民を語る政治家は稀となり、大事なことを先送りし、業界団体に票割りを繰り返して多数派だけを目標としてきた政党は利益共同体に成り下がった。
理想やイデオロギーや政治理念を投げ捨て目先の利益誘導のためには党中枢をリベラル派や左翼に理解ある人に譲り、宗教セクトとも野合してきた。
現在の与党も同じ錯誤に陥っており日々、国民の支持を失っている。この日本を覆う精神の無政府状態から抜け出すには日本的な精神を回復させるべきだろう。(「北国新聞」より再掲)
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5757 精神の無政府状態に陥った日本 宮崎正弘

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