5765 キルギス南部の暴動、またも深刻化 宮崎正弘

死傷数千人、外出禁止令。ロシア、PKF派遣を検討。オトゥンバエワ臨時大統領が悲鳴。6月10日深夜からキルギス南部で発生した暴動は、最初はバキーエフ前大統領支持派が引き起こした反政府暴動だった。ところが潜在していた民族紛争の火に油を注ぐ結果となった。
ビルは放火され政府庁舎焼き討ち、火をつけられ燃えた車が400台、ガス水道電機がとまり、市内は無政府状態となった。
「63名が死亡」(CNN、6月12日)「80名死亡、1000名が負傷」(AP,6月13日)。南部最大のオシェとジャララバードには非常事態宣言と外出禁止令が発令されており、住民は武装している。商店には略奪がおきている模様。
暴動は反政府運動の性格から、民族紛争へと飛び火した。ウズベキスタン国境目指してウズベク系の難民が数万おしよせ、真相が判明したのだ。
ウズベキスタン政府が国境をあけたため一万人が越境し、その後、国境を閉じている(アルジャジーラ、13日速報)。
キルギスは人口的に70%のキルギス人、15%のウズベク人、そして少数のタジク人とロシア人が住む。中国系は少ないが山岳部にドンガン族がいる。
キルギスは北部と南部でまったく国が異なるほどの対立関係にあり、前大統領のバキーエフは南部ジャララバード出身。その前のアカーエフは北部出身。
もともとが熾烈な対立関係である。
南部のオシェは人口25万、反北部感情がつよく、現在のオトゥンバエワ臨時大統領を支持していない。フェルガモ盆地はキルギス国内に位置するウズベキスタンの飛び地というのもややこしく、ここが反ウズベク政府運動のメッカ、過激派が盤踞し、数年前にJICA職員四名が誘拐されたこともある。
▲1990年暴動でも数百名が死亡した
くわえて民族同士の対立関係が深く根強く、1990年にもキルギス系住民とウズベク系渋面が武力衝突を繰り返し、数百名が死亡、ソ連軍が介入し、暴動はおさまった。
これは宗派と民族が入り乱れてのモザイク状態で、強圧的政治が去ると、かつてのユーゴスラビアの血なまぐさい内戦(セルビアvsクロアチアvsボスニアvsコソボvsマケドニア)が突如勃発したように、ある日突然潜在的民族対立に火が付くのだ。
北部に位置する首都のビシュケクではオトゥンバエワ臨時大統領がモスクワへ何回も電話をかけてメドべージェフ大統領に軍隊の派遣を要請した。
クレムリンは「それは内政問題だ」として軍派遣を断り、ナタリア・チモコバ報道官は「連邦と協議し、PKFを派遣する方向にはある」と記者会見。
あきらめずオトゥンバエワ臨時大統領はプーチン首相にも電話をかけてロシア軍の急派を要請した。キルギスはビシュケク近郊のマナス国際空港に2000名の米国海兵隊が常駐し、アフガニスタン最大の兵站基地となっているほか、ケント地区にはロシア軍500名が駐屯している。
キルギスは今月26日に憲法改正を問う住民投票を予定している。日本外務省は「渡航注意喚起」を呼びかけている段階(13日現在)。
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