5766 「沢内年代記」を読み解く(十九)  高橋繁

文化二年 乙丑(キノトウシ・・・1805年の記録)  
☆藩主利啓公従四位に叙せらる
①屋形様(南部藩の殿様・第三十六代利啓公。屋形は利啓公の号で、私称にして使用は領内に限られる「南部史要」)は「四品の御位」(しほんのおんくらい・令制で定められた親王の位、一品から四品まであった。)となる。「南部史要」には、「十二月十六日公従四位下に叙せらる。時に年二十三、古例によるに四位に上るは年四十以上なるも、公蝦夷地警護の功あるため特にこの栄進あるたるなり」とある。
年に似合わぬ栄進は、南部藩の蝦夷地での警護が内実のあるものであったことの証明でもあったと思われる。津軽公が同じ蝦夷地警護に当たっていたが、南部公より上に叙せられた不公平があったためともいわれている。
②八月閏あり。作柄は田は中作。畑(陸稲)は下作。課税割合は安永四年(1775)の歩と同じ。入石(他領からの買い入れ米)は一升(1.5㎏)二十八九文(870円から1.450円)であった。大豆小豆一升は十八九文(570円から950円)であった。御代官 高橋長左エ門、奥瀬喜左エ門
③六月二十一日より七月二十日まで、雨が降らず大日照りとなった。(この項は「下巾本」のみの記録)
④「草井沢本」6月16日月帯蝕8分ばかり欠ける。閏8月あり。此の年水田は上作であった。
文化三年 丙寅(ヒノエトラ・・・1806年の記録)  
☆狼狩り二匹捕らえる
①米の作柄中の上。課税割合は安永四年の元歩より二歩引きであった。入石一升は二十四五文(750円から1.250円)。大豆は良く実らず一升四十文(1.200円から2.000円)てあった。この値段は米一升の値段より高く、これまでの記録にはない値段である。御代官 高橋長左エ門、奥瀬喜左エ門。
②狼が多く、狼を捕らえた者には褒美をやるという命が出され、二月中、沢内全般の狼狩りを仰せ付けられた。桂子沢にて二匹獲り、役所(代官所か)に差し上げ、ご褒美として五百文(15.000円から25.000円)いただいた。
③「草井沢本」 「此年 田しがれ申候」と記録されている。「しがれ」の意味は「不熟のまま枯れる」「刈り取るに至らず、霜に当たって枯れる」などの稲の状態をいう。「作柄中の上」というこの年の一般評価からすれば不自然に思われる。しかし、地域によってはこのような状態の田もあったと思われる。
④《「歴史年表」からー幕府、ロシア船への薪水補給を諸大名に布達(文化撫恤令)。ロシア船樺太日本人住居を襲撃。》 
文化四年 丁卯(ヒノトウ・・・1807年の記録) 
☆お蔵・代官所役屋の棚木改修工事 ☆樺沢新道できる。 ☆ロシア船、エトロフ島襲撃する
①米、田畑の作柄は下作。出来具合は平年よりも悪かった。課税割合は安永四年の元歩より四歩引きであった。餅稲は特別に悪く大不熟であった。タバコの苗が不足して植えることが出来なかった者が多かった。この年麻は大凶作になる。(「下巾本」)
②入石(他領から買ってきた米)一升(1.5㎏)三十六文(1文は30円から50円として換算していましたが、2010年の現在の貨幣価値からすれば、1文は25円が適当との説もあり、この説に従うことにした。36文は900円ということになる)であった。御代官 奥瀬喜左エ門、工藤茂兵衛、
③新町のお蔵と代官所の役屋の棚木(普通には棚、戸棚、書棚を意味するが、土台、柱等をいうこともある。埼玉、群馬では「天井裏の物置き場、中二階をいう」とある)を建て改めた。
④樺沢に新しく道を造る。(「下巾本」には、「湯田豊沢に新道こしらえる」とある。)
⑤二、三月に代官が御給人、御同心を召し連れて、沢内中の山林、草刈場(採草地)、野山を四方隅々、沢の名まで調べられた。林の区切り境の縦横間数面積まで、当地の名木、雑木、青木(檜・杉・松等の常緑樹)を分別し、数まで調べられた。
⑥九月京都西本願寺より使いの僧が秋田より来られ、太田村浄園寺にて御教化された。(「下巾本」)
⑦四月二十九日松前(北海道)エトロフ島の紗那(しゃな・エトロフ島の中心地・寛政11年1799年に南部藩はクナシリ、エトロフまでの諸島、津軽藩は西蝦夷地カラフトまでの警護を幕府から命ぜられた。)の場所での出来事である。
遠くの沖に二万石程(和船の積載量は石を単位とした。1石は10立方尺。約0.278?)の大船が霞の中から小山のように見えた。何処の、何船なのだと言っている間に、船は矢のように突き進んできて、津軽家の警護隊が詰めている陣屋を焼き破ってしまつた。(大砲や火器を使ってきたと思われる)それから、御会所前(幕府役人もいる警護本部)に転馬船(艪や櫂で漕ぐ、はしけ)が数艘が上陸した。
役所からは通訳が出て、何のために来たかを聞くために走り出た。赤人(外国人)は鉄砲を撃ってきた。通訳は怪我で聞くことが出来なくなった。赤人共は日本の十匁くらいの銃を撃ちたて、撃ちたて御会所の中に入ろうとした。(1匁は3.75g。銃全体の重さとすれば軽すぎる。鉄砲の打ち出す玉の重さのようである)番人は緊急報告したところ幕府役人の戸田又太夫様が南部・津軽の場へ急ぎ、用意(戦闘準備)をするように命令された。急に突発した事件に陣屋の警護隊は弓、鉄砲と武器を持ち、駆け向かった。
仁義も知らぬ赤人共は鉄砲を撃ちたて、撃ちたて働くのを、幕府勢、南部津軽勢は撃ってくる鉄砲を打ち払い打ち払い、右に左に切り込んでいった。赤人共は堪えられるものがないから、沖の大船に逃げていった。宮川忠作は百匁鉄砲を腰に据えて、逃げ行く船に撃ち込んだ。玉は船中に当たり、黒煙が天に届くように立ち上った。続いて大畑忠兵衛が五十匁玉を込めて船を撃ち帰す。この勢いに赤人共は後を見ずに遠沖さして逃げ、行方知れずに逃げ失せた。
それ、大筒(大砲)はどうなっているか等と話し、準備しているうちに日が暮れて、物が見えなくなった。提灯、松明(タイマツ)用意せよと、あちこちから聞こえて来た。このとき、戸田殿は仰せ付けられた「赤人共は行方知れずになった。この上は引き上げて、各々各人は休息するがよい。」この仰せによって各人は陣屋に引き揚げた。
次の日の朝、五月一日「紗那」の背後の山より、赤人共大勢鉄砲撃ちたて、霞の中から押し寄せて来た。南部津軽の両勢はこれを見て、昨日のことに懲りもせず又来たか赤人共と、弓、鉄砲を撃った。隠れ霞の赤人共の動く人形が見分けができなくなり、次第に霞が深くなった。一間(6尺、約2m)先も見えなくなったが、双方の空撃ちの鉄砲玉ははらはらと雪や雹のように落ちて来た。ここが大事と行動した。赤人共が大筒を撃ったかと思う内にたちまち御会所が炎にになった。
これは大変と驚き、近づき何とかしようと思つたが、霞と火炎で人の形も見分けが付かなかった。とやかくしているうちに赤人共は御会所のお倉に入り込み、台所用具、米、味噌を遠沖の大船に持ち運んだ。さらには、勤番所のお蔵に入り、宝物を盗み取り、勝手次第に大船に持ち運び、火炎と霞と共に遠沖さして逃げ失せた。
跡は焼き野の下火となり、霞は晴れて晴天となった。戸田氏が申すには「赤人に盗賊せられたこと、今となっては仕方がない。各人にはさし当たって焼け跡に陣も敷けないから、一先ず勝手にお引取りいただきたい。吾らは事の次第を函館御奉行 羽太安芸の守に訴えてきます。」と飛脚船を呼び寄せ去って行った。しばらく函館の返書を待つことになった。
この騒動で、会津、仙台、秋田三国の軍勢が松前に集結することになった。仙北勢、湯沢横手勢は城下(秋田)に詰める。六月沢内代官所の人足数人盛岡に詰める。
⑧「草井沢本」にはこの年の記録がない。理由は不明。《この事件の内容については「南部史要」(原敬が調査研究させて出版したものである。私財を投じ、資料を一括して菊池悟郎氏に委嘱して執筆させ、上梓したものが本書である。その編集の趣旨「善悪を忌憚無く述べ、公平を主とし、藩公を中心に編年史風に記述した」)の第36世利敬公の項に詳しく記録されている。この事件について最も有名な記録に「私残記」がある。
「私残記」は、この事件当時南部藩の警護の一員として警備に当たった砲術師大村治五平が密かに書き残した記録である。「彼は56歳の身でロシア船に捕虜となり、放還せられてから、57歳のときこの手記を書き、永く御預のまま62歳で死んだのであります(「序」より)」任務を放棄した者と見なされ刑を受け、罪を赦免されたのは死後。近代装備を持つロシア船、火器など圧倒的なロシア兵に日本の武士団はひたすら逃げ隠れする他なかった様子が記録されている。
治五平は銃弾に当たり怪我をし、逃げ惑う間にロシア兵に捕まり捕虜となる。味方の上司役人には兜の緒の締め方を知らず治五平に教えを請う者、果ては、治五平が逃げて役目を果たさなかったために犠牲になったと嘘の報告をしたりして責任を逃れた者もいたことがわかる。形や見栄えにはこだわるがいざ、実戦となると自分可愛さにオロオロする姿がまざまざと記録されている。命にかかわる大事になると、人間はもろさ、弱さをさらけ出してしまうようである。
ロシア軍の卑怯、卑劣、残虐な行動中心の記録が正規?な記録として残されている中で「私残記」は幕末の武士団の力、内実をも記している貴重な資料である。「私残記」大村治五平によるエトロフ島事件ー森荘已池著 中公文庫 昭和25年10月10日発行による。》
文化五年 戊辰(ツチノエタツ・・・1808年の記録)   
☆新町代官所の門が建つ。☆女人の眉毛を剃る命出る。☆津志田に遊女町☆新町神明神社内に金毘羅、秋葉神社の末社建つ。☆太田玉泉寺の鐘来る。☆下前金山殿様の取立てで掘る。☆槻沢の冨一坊親孝行のため褒美をもらう。☆南部の殿様二十万石の格となり、侍従の御位となる。☆蝦夷地の警護に仙台藩、会津藩が加わる。
①米はじめ作物作柄は下作であった。課税割合は昨年と同様、元歩より四歩引きであった。御代官 奥瀬喜左エ門、工藤茂兵衛
②入石値段一升(1.5㎏)四十文(1文=25円として換算・10.00円)。全般に穀物の値段は高値であった。去年の下作のため人々は大変困った。
③新町の代官所役屋の門が始めて建った。
④御上様より女の人は眉毛を剃るように命じられた。若い女子は吟味されなかったが、中女、老女は厳しく吟味された「下巾本」。盛岡津志田に遊女町ができた「巣郷本」「白木野本」。
⑤新町神明の御宮に金毘羅、秋葉神社の末社が建立された。
⑥太田玉泉寺の鐘、秋田仙北角館より来る。
⑦下前村金山が御上様が取り立て掘らせられる。
⑧槻沢村の冨一坊は、母親が病気のとき、岩手山へ祈願したところ快気した。そのお礼に岩手山へ三度も御参りに行った。その効があって、かねてから孝を尽くしたとして御上様より二人扶持を戴いた「下巾本のみ」。(「二人扶持は、二人で1年間食べる米の量、米俵約4、5俵と思われる)
⑨桂子沢の肝入 幸左エ門様が病死され、代わりに越中畑の惣兵衛がなった「下巾本のみ記載」。
⑩殿様は十二月、二十万石の御格になり侍従の御位となった。
⑪四月蝦夷地(北海道)ロップ島、クナシリ島は南部、津軽藩の警護地であったが、仙台、会津藩が御勤番となった。ロップ島、クナシリ島は仙台様。カラフト島、宗谷、斜里は津軽様であったが御勤番は会津様となつた。奥州仙台の城主松平政千代様六十二万五千六石の軍勢は千七百人であつた。
その内の七百人はロップ島。五百人はクナシリ島。五百人は函館亀田の陣場。クナシリ島に配備された武士方の頭御役は高ノ雅楽。御目付猪狩市郎左エ門。兵糧奉行森田勇記、武頭文覚山崎源太左エ門、午坂栄蔵、横尾又五郎、米山仙左エ門。使番士(伝令)二騎。軍者二人。徒目付(目付の指揮を受け、警護、探偵に従事する)二人。責太鼓鉦役六人。大筒打ち十五人。
諸役人五人、大宋田(田、農作物に詳しい人か)十七人、長柄(柄の長い武具)十筋、付士(ツキサムライ・武士の本に働く人)三十五人、医者三人、鉄砲三十挺。弓三十張、長柄三十筋、小人(武士のもとで走り使い等をする人)十七人、足軽百七十八人、鉄砲七十六挺、士卒(兵卒)百三十人、詰成人(詰め所内で専門に世話する人)十六人、人足七十八人。合わせて五百十五人が仙台勢のクナシリ警護団であった。
奥州会津城主松平肥後守様は二十三万石であった。この秋七月仙台会津の警護団は引き上げ、前年の例にならい南部津軽の勤番となった。この記録は誰の手によって記録されたか分からないが、大変に詳しい。仙台藩の警護団の周到な準備に見習いたいという願いが感じられる。なお、この記録は「巣郷本」「白木野本」に記録され、「下巾本」にはない。
⑫「草井沢本」は、この年の記録なく白紙。《「歴史年表」より。間宮林蔵、カラフトを探検し島であることを発見する。イギリス軍艦フェートン号オランダ商館員を捕らえて薪水を強要する。アメリカ奴隷の輸入を禁止する。》
文化六年 己巳(ツチノトミ・・・1809年の記録)   
☆空より五穀降る。☆高橋玄真様(医師)湯田に転居。☆総牛馬改めがあった。☆山室橋架け替え。☆藍の貸し売りで困窮。☆お上様、肝入を通して新茶貸し売りする。
①米、農作物の作柄は上作であった。課税割合は安永四年(1775)の元歩と同じであった。大豆は上作。麻は当分は良いのだが、種がならず大不足である(麻についての記録は「下巾本」のみ)。御代官 工藤茂兵衛、多田専右エ門、奥瀬喜左エ門の代わりである。
②入石一駄(米七斗・105㎏)の値段は二貫八百文(1文25円として換算すれば、70.000円)であった。(1升の値段にすると、1.000円となる)
③三月十九日風雨大嵐となる。各神社の境内には黍(きび)小豆、赤米のような物が降って来た。植えてみると草木のように生えた。「草井沢本」には「この年五穀降る。仙人かげ(北上市)には大豆、小豆、籾、蕎麦降る」とある。(「草井沢本」の項参照されたい。)台風か竜巻のために舞い上がった穀物が降って来たとしか考えられない。「日本災害史」には記録されていなかった。
④小?村の高橋玄真様(医師)が湯田村に移られた。(このことは「下巾本」のみに記録されている)
⑤四月十六日、沢内の全部の牛馬の頭数が調査された。
⑥六月、山室橋掛けかえられる。
⑦常陸の国(茨城県)の商人が殿様に願い出て南部領内の藍(藍の葉をきざんで発酵させ乾して固めた玉を藍玉として売った・染料)を買い上げるからと、来年まで肝入りに預けることになった。百姓は現金収入がなくなり困窮した。
⑧この年、お上様より村々の肝入に新茶をお下げ、預かり、百姓に売るようにとのことであった。百文(2.500円)で八十匁(1匁は3.75g・80匁では300g)。上々茶は百文で五十匁。次の年まで貸し売りするとのことであった。(この項「下巾本」のみに記録されている。) (現在では、新茶1袋100g入りで、種類によるが消費税抜きで600円から2.000円まであるという。300gで2.500円は普通の値段と言えるかどうか。当時の感覚では高価であったと思われる。)
⑨「草井沢本」9月15日 月帯蝕 8分半欠ける。この年五穀降る。仙人かげ(北上市)には大豆、小豆、籾、蕎麦降る。沢内には黍、小豆ほか名の分からない実も降って来たということである。2月9日なり(他本には3月19日とあるが、なぜか「草井沢本」はこう記されている)。天より降らせ給ふものか。田畑共上作也。《「歴史年表」より。幕府カラフトを北蝦夷地と改称。間宮林蔵、東韃靼を探検し、海峡を確認(間宮海峡)フランスとオーストリア、ウイーン条約締結。》
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