第二次大戦中、日本海軍の連合艦隊司令長官だった山本五十六提督機の撃墜ミッションの攻撃部隊指揮官だった人物にインタビューした記録を基に、山本機攻撃の実態を書きました。
私自身がこの元米軍パイロットに長時間、話を聞いた結果です。このレポートは歴史雑誌の『歴史通』の最新号に掲載されました。「我レヤマモト機を撃墜セリ」というタイトルです。
―山本機を攻撃したパイロットが初めて日本側に語った全証言
連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将が戦死したのは、一九四三年(昭和十八年)の四月十八日だった。南太平洋のブーゲンビル、雲ひとつなく晴れあがった日曜日の朝であった。山本長官を乗せた一式陸上攻撃機はブーゲンビル島近くの上空で、アメリカ軍P38戦闘機の編隊に襲われた。
周到な待ち伏せ攻撃だった。
ごく短時間ながらも凄絶な空中戦が展開されて、長官機は炎に包まれながらジャングルへ墜ちていった。巨星墜つ――と評されたように、山本五十六の死は当時の日本にとって国の根底をゆさぶられる一大衝撃だった。太平洋戦争の転機を最もドラマティックな形で印す出来事でもあった。
山本五十六長官の死から六十七年――
二〇一〇年春のアメリカでは太平洋戦争がまたまた新たな話題となった。人気俳優のトム・ハンクスが『ザ・パシフィック(太平洋)』という題の日米戦争映画を制作したことが原因の一つだった。
映画チャンネルのテレビ、HBOで十週間連続のミニシリーズとして三月なかばから放映されたこの作品は太平洋での日米両軍の激戦をドキュメンタリー・ドラマとして描いていた。
この太平洋での戦争の歴史は日米両国で永遠に語り継がれるだろうが、そのなかでの主要人物の一人は山本五十六である。日米両国で伝説のようにみなされたこの日本海軍の提督は戦争の最中に壮絶な死をとげた。
では山本五十六はどのように死んだのだろうか。私は山本五十六撃墜ミッションの編隊指揮官となり、山本機に実際に銃撃を浴びせたというアメリカ側の人物に詳しく話を聞いたことがある。
半日以上を費やしてのインタビューだった。P38戦闘機のパイロットだったトーマス・ランフィア・Jr(ジュニア)である。
ランフィアはその作戦当時、アメリカ陸軍航空部隊所属の大尉であり、南太平洋戦線ではそれまでにもいくつものはなばなしい戦果をあげていた。
トーマス・ランフィアに会ったのは一九八三年春だった。当時の私は毎日新聞の記者だった。ワシントン駐在の特派員を六年ほど務めた後、東京で政治記者となっていたが、日系米人についての特別の連載記事のためにアメリカ各地を回っていた。その途中でかねて連絡をとりあっていたランフィアにインタビューを求め、それが実現したのだった。
私はその時点ですでにランフィアを「山本五十六を撃った米軍パイロット」として知っていた。全米でも有名な人物だったのだ。ガダルカナル戦線での若きランフィアの写真をも米軍の古い刊行物で見ていた。
軍服を脱いだ彼の裸の上半身は、学生時代フットボールのクォーターバックとして鍛え抜いたというだけあって、ひとつひとつの筋肉がはっきり見分けられるほどひき締まっていた。窪んだ頬、濃く迫った眉、真正面をぐっとにらみつける大きな眼。まさに精悍そのものの戦闘機乗りだった。
会う前に何度か電話で話した。彼はまじめな質問にならなんでも納得のいくまで答える、と言っていた。私がいざ出かけると、彼はサンディエゴの空港まで自分で車を運転して迎えにきてくれた。
「私がトム・ランフィアです」こちらの手が痛くなるほど強い握手だった。だがその人物にガダルカナルでの写真の面影を発見するのは難しかった。四十年の歳月が流れ、六十七歳となったランフィアは体型もゆったりとして、温厚な実業家といった円満な風貌になっていた。
インタビューの場として招かれた彼の自宅はカリフォルニアの基準ではわりに小さなアパートだった。夫人とのふたり暮しだという。もうみな成人して独立しているという娘たちやその家族の写真がそこここに飾られていた。
ランフィアは一九八三年のそのころ、山本長官撃墜をはじめとする太平洋戦争での体験を中心に、自分の一生をまとめた本を執筆中だった。部屋のすみのデスクには資料が積まれ、古いタイプライターがおかれていた。
私の質問にもそうした資料を時折、繰りながら答えた。ランフィアは、それでも五十代としか思えないきびきびした挙措だった。打てばひびくような応答で長い時間、インタビューに応じた。
そして当時の作戦の模様だけでなく、山本機攻撃の任務を与えられたことへの個人的心情をも綿々と語りつづけた。ランフィアの飾り気のない述懐は、山本五十六という人物の軌跡にアメリカ側からのユニークな光を当てることともなった。
ランフィアはまず自分自身の日本との戦いの始まりについて語った。彼は名門のスタンフォード大学を日米戦争の始まる年のはじめに卒業し、軍隊に志願していた。
「日本軍がパールハーバーに奇襲をかけた一九四一年十二月七日(日本時間では十二月八日)、私はアメリカ陸軍航空隊の第七〇戦闘飛行隊に所属し、サンフランシスコ近くのハミルトン基地に駐在していました。すでに戦闘機パイロットとしての猛烈な訓練を日夜、続けていました。
日本軍のスニーク・アタック(だまし打ち攻撃)を知り、激しい戦意を燃え上がらせました。そして開戦後まもなく、第七〇戦闘飛行隊は太平洋のフィジー島へと送られたのです。そこでも猛訓練の日々でした。そのころ使っていたのはP39戦闘機でした」
日米開戦からちょうど一年が過ぎた一九四二年十二月、ランフィアの部隊は激戦の地ガタルカナル島へと派遣された。米軍は同年八月に同島への上陸作戦を開始していた。
南太平洋全域での米軍の本格的反攻の始まりだった。
「私たちの戦闘飛行隊はガダルカナルに着いてから新しい戦闘機P38を与えられました。この戦闘機はライトニング(雷光)という呼称でした。速度、上昇能力、装備火器などすべての面でそれまでのP39よりもずっとすぐれていたのです。
とくに五〇口径の機関銃四基と二〇ミリ砲一門の火力は群を抜いていました。山本五十六機を撃墜するのも結局、このP38戦闘機となるのです」
第七〇戦闘飛行隊は、このころまでヘンリー・ビセリオ大尉によって指揮されていた。ビセリオは南部出身の、長身で寡黙なパイロットだった。ランフィアはこのビセリオとずっと行動を共にすることとなる。
トーマス・ランフィア大尉が山本長官襲撃の任務を告げられたのは、一九四三年四月十七日だった。この時すでに少佐になっていたビセリオに指示され、マーク・ミッチャー海軍少将の指揮所に出頭した。ミッチャー少将はアメリカ南太平洋軍のソロモン群島航空部隊司令官である。
舞台はガダルカナル島のヘンダーソン航空基地だった。ビセリオ少佐は「なにかおもしろいミッションらしいぞ」と言うだけでなにも明かさず、ランフィアは一体なんだろうといぶかった。
彼の部隊のパイロットたちはみな翌十八日から待望の休暇に入り、オーストラリアに遊びに行くことになっていた。
「ヘンダーソン基地のミッチャー少将の大きなテントに入ったとたん、びっくりしました。ふだん同時に集まることのない重要な上官たちがずらりと並んでいたからです。ミッチャー少将とその全スタッフだけでなく、フランク・ハリス海兵隊少将、S・C・リング海軍中佐、エド・ピュー陸軍中佐、ジョン・コンドン海兵隊少佐など、その地域の航空部隊の首脳二十数人がずらりと控えていたのです。私は身を引き締めました」
この時までにランフィアの第七〇戦闘飛行隊は、第三三九戦闘飛行隊へと併合された形になっていた。第三三九戦闘飛行隊からはランフィアと親交の深いジョン・ミッチェル少佐もテントへ参集していた。
ミッチャー少将が簡単にあいさつした後、作戦担当参謀のコンドン少佐がランフィアやミッチェルに青い用紙に打たれた電文をみせた。
青の用紙は海軍のトップ・シークレットに使われていた。山本連合艦隊司令長官が部隊巡視のため四月十八日朝、ブーゲンビル島近くのバラレ島に到着する。
山本はニューブリテン島のラバウルから南東へ五百四十㌔ほどのバラレまで飛び、バラレの飛行場に午前九時四十五分(日本側時間午前七時四十五分)ごろに着く予定となっている。護衛は零戦六機。バラレ着陸後は駆潜艇でショートランドの水上飛行機基地まで向かう。いかなる代価を払ってもこの標的に肉薄し、破壊せよ。大統領もこの作戦をきわめて重視している――ざっとこんな内容が書かれ、最後にはフランク・ノックス海軍長官の名が記されていた。
ランフィアはそのときの思いを語った。
「この電文の内容を知り、当然ながら、たいへんなことだと感じました。超重要なミッションです。とくにイソロク・ヤマモトを撃つという作戦には体がしびれる思いでした。彼の名はパールハーバーへの奇襲のすぐ後から私の胸に刻まれていたからです。
あの卑劣な、だまし打ち攻撃を計画し、実行した日本の連合艦隊司令長官のヤマモトこそ、敵のナンバーワンであり、彼の攻撃に断固として反撃するためにはどんな任務にも就くぞと心に誓っていたのです。翌日からの休暇で楽しみにしていたオーストラリア行きも、すぐに忘れました」
当時のアメリカ国民は山本をパールハーバーへの〝だまし打ち〟の総責任者とみなし、激しい敵意を燃やしていた。日本側がワシントンで対米和平交渉にのぞみながら、外交交渉打ち切りの通告文書を手渡す前にハワイを奇襲攻撃したことは、ルーズベルト大統領に「汚辱の日」というあの有名な言葉を叫ばせた。全アメリカに日本への激しい怒りをわき起こしたのだ。
その怒りが直接ぶつけられたのが、〝スニーク・アタック〟を指揮した連合艦隊司令長官の山本五十六だったわけである。当時のアメリカ国民が山本への敵意と憎悪を燃やした理由は他にもあった。
山本五十六によるとされた「ホワイトハウスで降伏要求を」という声明がその理由だった。発端は日米開戦の十か月ほど前、山本が知人に送った書簡の記述である。
「……しかし日米開戦に至らば、己が目ざすところもとよりグアム、フィリピンに非ず。はたまた布哇(ハワイ)、桑港(サンフランシスコ)に非ず。実に華府(ワシントン)街頭白亜館上の盟ならざるべからず。当路の為政家はたしてこの本腰の覚悟と自信ありや……」
アメリカを相手に万一、戦争をする場合、フィリピンとかハワイを攻める程度ではすまない。ワシントンにまで乗りこむつもりがなければ戦争をすべきではない。日本の指導層は対米開戦ということをもっと軽く考えすぎているのではないか――といった趣旨だった。
だからアメリカ相手の戦争などできない、という山本の持論を述べた書簡だった。
ところがこの書簡が後に「当路の為政家はたしてこの本腰の覚悟と自信ありや」という肝心の文章を削って公表されてしまった。日本の通信社が外国向けにそのように報じたため、アメリカでは「ホワイトハウスで大統領に降伏の条約を結ばせてみせる」という意味で広く伝わった。
山本は「アメリカ撃つべし」の主戦派ナンバーワンとして多くのアメリカ人から敵視されるようになったのである。「そんなことを豪語するとは、なんと傲慢な奴だと当時、思っていました」と、ランフィアが回想したように、これも日米間の深刻なコミュニケーション・ギャップだったともいえるだろう。ただしランフィアはその後、山本に対する考えを大きく変えることになる。(つづく)
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5802 山本五十六を撃った朝 米軍パイロットの回想(1) 古森義久

コメント
パールハーバーという 映画をみました。日本人は 野蛮
原子爆弾を 落とされた国として 被害妄想がある。
中国にした事 いろいろあるようですね。日本の教科書は 教えてくれない。中国の年配の方は 日本を 嫌うそうですね。日本も トラ トラ トラという映画がありました。
その昔に ジョウシとカシという時代もありました。
神風というのは なんだろう?