父・古沢元の故郷である岩手県沢内村を訪れたのは1982年、28年も昔のことになる。少年時代を母の実家がある長野県上田市で過ごしたので、岩手県は未知の世界であった。この年の2月に母が亡くなった。死に水をとりながら、母と父の遺稿集を出そうと思い立った。シベリアで果てた父の墓は川崎市に建ててある。
一番の供養になると思って発刊した遺稿集には「びしゃもんだて夜話」の表題をつけたのだが、読売新聞や岩手日報が書評を書いてくれたので、結構、評判になって増刷までした。古沢元は旧制盛岡中学から仙台の第二高等学校に進んでいる。
その盛岡中学の同級生が私たち夫妻を呼んで「古沢元を偲ぶ会」を開くという知らせを頂いたのは夏のことである。直木賞作家の森荘已池さんら十数人の方とお目にかかることが出来た。「明日は初めて沢内村に行くつもりです」と言ったら、「山伏峠は難関だから、気をつけて運転をしなさい」と言われた。
つづら折りの山道を越えて山伏峠の下り坂に入ったら、豊かな緑に包まれた西和賀の大地がパノラマのように開けている。熊やキツネ、タヌキが出没する山の僻地と思っていたから、私たち夫婦は車からおりて西和賀の盆地の風景にしばし見とれた記憶が残る。
東北について無関心だったわけではない。60年安保の2年前だったが、高橋富雄(たかはし とみお、東北大学名誉教授)さんの「奥州藤原氏四代(1958年)」を読んで、東北に独自の絢爛たる文化が花開いていたことを知っていた。
ことし89歳になった高橋さんは健在な筈である。東北古代史研究の第一人者である高橋さんは、岩手県和賀町(現在の北上市)の生まれ。仙台の旧制第二高等学校の講師、戦後の学制改革で東北大学教授、1985年に名誉教授となった。
「梅松論」「室町軍記 赤松盛衰記」など軍記物語を私は好んで読んでいたから、日本最古の軍記物語といわれる「陸奥話記(むつわき)」も現代語訳で読んでいる。しかし源氏と安倍一族の争闘について壮大な歴史ロマンを描いた高橋克彦さんの「炎立つ」全五巻ほど印象に残る小説はない。
そこには滅び去った北の王者に対する深い哀惜の心が滲み出ている。史実に基づく歴史研究とロマンを描く小説の世界は違う。史実にばかりとらわれると、案外、つまらない小説になってしまう。ましてやインターネットの投書ばやりの昨今だから、小説の内容をとらえて史実とは違うと息巻く手合いも増えている。
高橋作品で心を惹かれたのは、悲劇のヒロインともいうべき有加一乃末陪(あるかいちのまえ)の生涯であった。「炎立つ」では結有(ゆう)の名ででるこの女性は、安倍貞任、宗任の異母妹に当たる。奥州藤原氏の祖となった藤原清衡の母。
兄の貞任は厨川の戦で戦死し、夫の藤原経清は捕らえられて惨殺されている。その結有は助命されて敵方の清原武貞の正妻となった。清衡も清原家の養子に迎えられている。
敵方の武将の妻子が、源氏と結んで安倍一族を滅ぼした秋田の清原武貞の正妻と養子になることは、常識としてあり得ない。しかも清原一族は安倍残党狩りを執拗にやっていた。
根拠はないのだが、有加一乃末陪の実母は清原一族の出自ではないかと思っていた。死一等を減じられて実家の清原家に引き取られたと解釈すれば、それなりの理屈が立つ。だが、その後の歴史をみるとこの母子は源義家と結んで清原一族を滅ぼしている。「陸奥話記」はその謎解きをしてくれない。
高橋克彦氏は結有の母の出自は、安倍一族を支えた金の採掘を握る豪族だという大胆な構想を立てている。安倍氏を滅ぼした清原氏にとっても金の採掘は魅力があった。だが、その後20年間続いた清原氏の時代には金を持った記録がない。
安倍の出自に誇りを持つ結有は、清原武貞の正妻になっても協力をせずに、清衡が一人前になる日を、ひたすら忍びながら待ったことになる。清原氏が滅亡して奥州藤原氏の祖となった清衡は、奥六郡を支配すると豊富な金を使って支配圏を広げている。
結有の母が清原一族の出自という私の仮説よりも、高橋克彦氏の仮説の方が遙かに雄大でロマンがある。陸奥・出羽という安倍氏と清原氏の領土を引き継いだ清衡は、自らを東夷の頭と呼び 、東北蝦夷の誇りをもっていたという。
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5817 東北蝦夷の誇りをもっていた藤原清衡 古沢襄

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