文化七年 庚午(カノエウマ・・・1810年の記録)
☆廻戸川の殺人 ☆馬の競り市の上納金なし ☆奥州南部何郡の何村と名乗れ
①米の作柄は上作。課税割合は昨年と同じ、安永四年(1775)の元歩であった。大豆、小豆下作。粟は上作。御代官 多田専右エ門、沖伝右エ門。入石(他領からの買い入れ米)一升(1.5kg)の値段三十五文(875円)であった。
②十二月二十三日。秋田稲庭(いなにわ)の太吉という商人が仙台からの帰り、廻戸川(まっとかわ)で一緒にいた者に殺された。この事件は結局「フギタオレ」(吹雪のために歩行できずに疲労のために死ぬこと。「吹雪倒れ」と記すのが一般的であるが、記録者は「風」の部首から「虫」を取り去り、代わりに「雪」を書き込み「ふぎ」とルビをつけている。造字である。)ということで処理された。
③「御掫金銭ノ目銭御免成」(「下巾本」のみに記録されている)。馬の掫(せり市場・競売)の臨時の上納金はなくなった。(「牡馬二歳になると競市にだして競売した。その値一両にならないものは、「匁掫(もんせり)」といってその半分を馬主に与えた。一両以上は「掫駒乗金」といって馬主には一両与え、他は全て官納せしめた。」「用語・南部盛岡藩辞典」)馬の競市にかかわる上納金がなくなった。ただし、上納金の一部か全部かは不明である。その時々の産馬政策によってちがったようである。
④今年の正月からこれまでは、蝦夷地(北海道)に行く場合、「北地に行きます」「奥南部の者」といえばよかった。十二月からは「奥州盛岡何郡、何村の者」と言うようにせよという仰せがあった。この項の記録は「白木野本」のみに記されている。南部藩の殿様は十万石から二十万石の格付けをいただいたが、幕府に対する上納金もそれなりに莫大なものになった。参勤交代のお供もこれまでの倍の人員、費用を要した。費用の捻出、格式の宣伝維持のためには領民にもそれなりの理解と自覚を求めたものと思われる。
⑤「草井沢本」3月1日 日蝕 1分半欠ける。この年稲良し。粟、大豆、小豆共に中作。6月4日晩雷雨。大洪水、おびだたしい。
《「歴史年表」より。幕府、相模浦賀・上総・安房沿岸の砲台構築を命じる。フランス、オランダを併合する。》
文化八年 辛未(カノトヒツジ・・・1811年の記録)
☆藍は高値であった ☆本内川、廻戸川の橋架け替え ☆ほうき星出る☆蚕種の販売請負人 ☆太田八幡宮、湯田明神 社殿建て替え
①米の作柄は中の下。納税割合は昨年より二歩びきであった。御代官 多田専左エ門、沖 伝右エ門。
②入石(他領からの買い入れ米)は一駄(7斗・105㎏)につき二貫九百文(約72.500円)であった。大豆は大変よく穫れた。藍(染料)の苗は日照りのため不足し、藍葉は高値であった。
③本内川の橋、廻戸川の橋は両方とも上流の浅瀬に掛け替えられた。左草の山神神社のお堂が建替えられた。
④七月はじめより十一月まで彗星(ほうき星)出る。「草井沢本」には、「七月より毎晩ほうき星でる。はじめ北西の方向によって出ていたが、徐々に冬十二月には南から出るようになり、西から出るようになって終わった。」とある。「内史略(4)」には、「文化四年(1807)八月二十日ころから九月になって北西の方角に午後六時から八時まで彗星出る。九月末になって見えなくなった」とある。この彗星との関係はないものだろうか。⑤蚕種の引き配り請負人(販売人)として盛岡袰綿兵右エ門、中町清助という者が代官所に申し出、 代官所からその旨申し渡された。ここまでの記録は「巣郷本」「白木野本」も同じ内容である。「下巾本」の記録はこの記述に「ことごとく迷惑する」と続いている。「迷惑する者」「迷惑した者」は「誰か」が問題である。誰もが迷惑したのならば、「巣郷本」「白木野本」にも「諸人ことごとく迷惑する」と記録されていいはずである。
「下巾本」の記録者は、代官所内部の事情に通じていたように思われてならない。つまり「迷惑した」のは代官所の役人たちではなかったかと思われる。城下盛岡より直接に販売請負人が来て蚕種を販売するのであるから、これまでのように代官所の都合のよいように販売ができなかった。ということが「ことごとく迷惑する」という内部事情のように思われてならない。
⑥太田の八幡宮、湯田の明神宮の社殿か建て替えられた。
《「歴史年表」より「奈佐政辰、クナシリでロシア艦長ゴロヴニンら8名を捕らえる。イギリス、ジャワを
占領する。》
文化九年 壬申(ミズノエサル・・・1812年の記録)
☆稲作上々作る ☆八兵衛の魂、玉泉寺大和尚の夢枕に立つ。☆代官所役屋改築。
①作柄は上作であった。上納割合は安永四年(1775)の元歩を仰せ付けられた。上作ではあったが所々蝗(エナムシ・稲の害虫・ツマグロヨコバイ、トビイロウンカ等)がついて不熟なものもあった。
②五月二十五日より六月九日まで雨が降らず。大日照りのため、畑に野菜等を植えることができず人々は難儀した。田は上々作といっても善し悪しのある作柄であった(「下巾本」)入石相場は一駄(7斗・105㎏)二貫七百文(1文を25円とすれば、67.500円)であった。
③御代官 沖伝右エ門、長嶺九兵衛、多田専左エ門代わる。代官所の役屋建て替える。
④太田玉泉寺住職弘通大圓(コウツウダイエン)大和尚は世事を離れてのんびりと過されておりました。七月二十九日うたた寝の夢に、えたいの知れない人が枕元に来て話した。「私は延宝年中(三年・1675)無罪であるのに命を奪われた八兵衛です。死人のいる地下で百余年間も苦しみ続けました。大和尚様、私に哀れみを下さりこの苦しみから救ってくださいませんか。私の苦しみを救ってくださったならば、この村を災害から守ります。」大和尚はこれに答えて言った。
「そうでしたか。私はあなたの望み通り供養しましょう。しかし、何か証拠になるものを顕していただきたいものです。」
八兵衛は大和尚に答えて言った。「私の苦しみが消え去ったならば、明年その証拠を顕します。大和尚様、間違っても忘れずお願いします」と言って姿が消え、夢が覚めた。大和尚は不思議なこともあるものだと思ったことであった。大和尚は八兵衛が殺されたと伝えられる遠巣谷山(トスガヤマ)に行かれた。そこに一宇の小社を建立しお経を唱え、八兵衛の霊魂を供養された。小社は八竜権現として祭られた。(八兵衛の話は「下巾本」「草井沢本」には記録されていない。)
⑤「草井沢本」「7月16日 月蝕 皆欠ける。この年田畑共に上作なり。中でも稲は上々良しであった。5月28日雷・大雨が降った。それから6月21日まで雨降らず。21日の晩少し降る。それよりまた天気が良かった。23日昼過ぎに少し降る。29日朝から晩まで三度だけ降る。その他6月は上々の天気であった。」
《「歴史年表」より「ロシア船副艦長リコルド、海上で高田屋嘉兵衛を捕らえる。」》
文化十年 癸酉(ミズノトトリ・・・1813年の記録)
☆八兵衛穴の不思議 ☆作柄不熟 ☆大雪で稲取り入れ不能 ☆田村の男殺される☆碧祥寺の鐘、やっと届く ☆退休、下前の歴史を問う
①八兵衛穴の側に直径約3mの大穴が出来ていた。水がその穴の中から、逆に流れ出ていた。八兵衛の霊魂が大和尚との約束を果たした印であろうと人々は不思議に思いながらも信じたことであった。(「下巾本」「草井沢本」にはこの記録はない。)
②この年不熟であった。「下巾本」には「十一月閏あり。稲青絶となる。(あおたつ・成長が止まり実らなかった)山根、小沢(山際や沢の出口の田)下通り辺は種がなかった。一切歩なしとなる(収穫がまったくなかった)。」と記録されている。川舟、太田の肝入は盛岡城下に行き、「年貢米を割り引いていただきたい」と願い出た。
その結果、去年(文化9年)より七歩引きにすると仰せられ、帰ってきた。しかし、それでも上納することができないので、湯田、新田の肝入がまたまた城下に行き、とても上納できないので更に割引きいただきたいと願い出た。結果は百五十駄(1駄は7斗・105kg)割り引くと仰せられた。「下巾本」には「安永四年の元歩より七歩平均に仰せられたが、 割引米百五十駄にしていただきたいと願い出、その通りになった。この内百駄は総年貢の二歩引きにあたる。
残り五十駄は大不熟のための引き歩合いとなる。湯田、桂子沢の二か村には三駄あて配分。残りの上納米は新町、太田、川舟の三か村に振り分け、引き歩合とした。総体的には九歩引きとなった。(上納米をこれまでの90%割り引いたことになる。)十月米一升六十文(1.500円)となる。去年の日照りのため、水不足になり耕作できかねた田地が所々にあった。六月中旬頃より雨降りが続いた。この雨は十月まで止むことがなかった。九月五日より八日頃まで、朝方、青稲に霜が降った。場所によっては蕎麦や小豆まで種なしとなった。」
③「巣郷本」「白木野本」九月下旬より稲を少しずつ刈り始め、十月はじめ稲刈りの真っ最中となった。この年奥羽、三閉伊通り(普通下閉伊、上閉伊と二つであるが、上、中、下閉伊と呼ばれていた。大槌・宮古・野田の三代官所に属していた。)八戸ご領地は従来にない不熟であった。米の値段は高値となった。牛方(牛に荷を積んで、塩、米、魚等の運搬・運送をしていた人々。)の多くがこの地に入り込んだ。牛方の多くは、三陸海岸、北上山地の人々であった。米不足は分かるが、それだけではないようである。
秋田仙北より買い米が山越えして来た。さらに北本内に鋳銭座(一文銭を作った)が出来て、銭が豊富なためか夥しい量の米が沢内通りに入ったという風評が起った。そのため、秋田仙北境の取り締まりが大変厳しくなった。秋田藩では発見しだい取り押さえるようにと通達したからである。
山内、岩瀬、土淵、その他山内中の百姓たちは、隠れ道、小道の境小屋まで毎日夜廻り、月番も厳しく、この地域での買い米はできなくなった。その折、別の山越え道から仙北の米が入ってきた。十月中旬は新米一升(1.5kg)四十八文(1.200円)ぐらいであった。古米が一升五十四五文(1.350円から1.375円)もした。仙北の米は昨年より不相応に高値で皆々困った。
④この年、湯本の久四郎が誰からも助けを借りず百貫余り(約2500.000円)で薬師堂を建立した。
⑤今年は不熟のため後々の覚え書きとして、節季ごとの気候を記しておく。(この項の記録は「巣郷本」のみ)
・正月五日立春となり、寒は終わったが凍ることは寒中以上であった。
・彼岸は二月九日。秋の彼岸は八月二十四日、土用は三月十九日。桂子沢のブナの木葉は土用過ぎ四日目に青芽がついた。
・夏の土用は六月二十二日。二百十日は八月八日。秋の土用は九月二十六日。
・春は日和が良く、時々雨が降った。四月中旬よりよい天気が続き、同月八日に大雹が降った。五月はじめ三日ほど気温が上がり、夏の土用中より暑かった。
・六月十八九日より雨が降り続いた。
・七月八日、一日だけ天気がよく、十二日まで雨が降った。十三日、十四日天気がよかつた。十五日より大雨降り、二十四五日は日和がよかった。稲は少しであるが出穂し、花が掛かった。二十七日より晦日まで雨降る。
・八月一日より天気よく、稲に花掛かり六日まで良かった。七日より雨降り、その後はよくなったが、沢の出口の日陰の多い田の稲は穂が出ない所が多かった。上流も下流も種なしになった。
・大川目中通りは少しよし。新田郷も少しよし。下前、左草はよかったが、稲の束、一束(刈り取った小束10こをさらに大きく束にした一束)から籾一升は採れなかった。
⑥御代官 沖伝右エ門に代わり奥瀬軍左エ門様が来る。
⑦十二月二十九日、秋田仙北田村の男は横手四日町の下辻門で三栗谷藤内という武士に失礼な言いがかりをつけた。藤内はこらえて無言でいた。田村の男はそれをよいことに益々悪口を続けたので、藤内はやむを得ず切り殺した。田村の男は日ごろから無法者で知られていたので無事に済んだ。先年、明和八年(1771)に正平寺町の男が斑目重左エ門という武士に無礼を働き、切り殺されて以来、今年まで四十三年間このようなことはなかった。
⑧当秋、天気悪く稲を干すことが出来ずにいたところ雪が降り積もった。湯田の長左エ門は雪の中から稲を掘り出し、家の中の梁、貫柱に掛けて干した。太田の喜七殿は刈り取った稲を田から引き上げることが出来ず、五六百束程を田に置きっぱなしにした。はせ(刈り取った稲を乾燥させるための杭柱)に掛けた稲も乾かぬ内に雪が降り積もった。取り入れようもなく、明くる春まではせに掛けっぱなしにした。何年調べても例のない大雪で人々は困窮した。
「下巾本」には「雪にて稲は雪の下になり、乾燥することが出来なかった。年貢米も作ることができないので、悪く粗雑な米を上納することを許してほしいと村の老名、肝入城下に行き願い出た。蒸米(乾燥せず蒸したような米か)をお蔵に上納した。他に粉先米(砕けた米)として一駄につき二貫六百文を代納、三駄願い上げ仰せつかった。」と記録されている。
⑨この年太田碧祥寺の鐘が秋田六郷の善能寺より調達し持ち運ぶことになった。途中横手の鍛冶町で秋田藩の役人に取り押さえられ揉め事になった。沢内通りからは越中畑の惣兵衛、新町の細矢傳右エ門の子吉右エ門、下前の金十郎、その他数人が横手に行き交渉したが解決出来なかった。越中畑の惣兵衛は弁舌が優れているというので選び出し、秋田城下久保田まで行って交渉させたが鐘を取り返すことは出来なかった。下前の長左エ門はただ一人久保田まで行き六十日間も交渉を続け、ついに鐘を取り返し帰って来た。これは天晴れなる手柄であった。
⑩十一月 左草の退休(タイキュウ・巣郷本の記録者ではないかといわれている人)が、下前の藤左エ門家の老母に尋ねた。「あなたの家のご先祖である藤左エ門様は、秋田の筏村穴淵よりこちらに来られて何年経ったのでしょうか。」
老母が答えられるには「慶安四年(1651・徳川家綱代)私の祖父(藤左エ門)が三歳の年に来たと言います。元文元年(1736)正月三日に死去しています。その日私(老母)が生まれ、今年で七十八歳になります。(藤左エ門は88歳で死去。老母はそれから78年になる。下前に移住して166年になる。)私どもの先祖がここに来た頃は、家は一軒もなかったそうです。」
退休は続いて老母に尋ねた「虎沢に新田の堰(用水路)を造られて何年になりますか」老母は「寛延二年(1749)に堰上げ(用水路完成)し、次の年より開田したのでした。」と答えた。この会話から、当時の人は意外に長命であったこと。さらに記憶力の確かなことに驚いたことであった。
⑪「草井沢本」「閏11月あり。正月十五日 月帯蝕 6分欠ける。この年田畑共に不作、下通り所により種なし。」と記録されている。(「下通り」というのは、和賀川の下流とも考えられるが、山の下の通りではないかとも思われる。)
《「歴史年表」より。「幕府、江戸に米会所を設置。リコルド高田屋嘉兵衛を通してゴロヴニンの釈放交渉を開始。(ゴロヴニンは9月に釈放された)》
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