普天間問題に象徴されるように米軍の海外駐留のあり方が日本でも論議の焦点となっています。米軍はお隣の韓国にも長年、駐留しています。在韓米軍を撤退しようとしたアメリカの大統領がいます。その試みはどうなったのか。以下はそのレポートです。
■追及かわす疑惑の人物
米国議会の公聴会で朴東宣氏の証言ぶりを初めてみたときは、本当にかっこいい人物だと感嘆した。米側からはトンソン・パクと呼ばれていた朴氏は1977年のそのころ42歳、ライトブルーの高価そうな背広をぴったりと身につけ、キラキラ光る純白のシャツに大きな金時計をちらつかせ、議員や調査官たちの厳しい質問をさらり、ひらりとかわしていくのだった。
「アメリカの議員らへの85万ドルもの資金の提供はあなたが韓国政府の代理人だったからでしょう」
「いえいえ、ぜんぶ自分の資金です。アメリカによくある若者の成功物語なんですよ。必死で働いて築いた財です。議員への支払いは孔子の教えのなかで育った私には名誉なのです」
ああいえば、こういう。議員たちの追及を流暢(りゅうちょう)な英語で煙に巻いていくのだ。
韓国生まれの朴氏は少年時代に米国に移住し、首都の名門ジョージタウン大学を卒業して、ビジネスで大成功をおさめたという触れ込みだった。ワシントンの社交界ではスカンディナビア系の美女の恋人とともに議員たちを招いての豪華なパーティー開催で知られていた。
朴氏の名が米国の国政の場で語られるようになったのは76年11月、民主党のジミー・カーター氏が大統領選で共和党現職のジェラルド・フォード氏を破って当選したころである。
その背景には、カーター氏が選挙公約として打ち出した在韓米軍撤退計画が大きな影を広げていた。在韓米軍の存在は日本の安全保障や日米同盟にも当然、深い関係があった。
私はロサンゼルスでのロッキード事件の嘱託尋問の取材を2カ月以上かけて終えたあと、ワシントン常駐の特派員に任じられていた。
ベトナム駐在を3年半ほど続け、東京でほんの8カ月ほどを過ごしただけで、またアメリカの駐在となることには、私生活に関しての動揺があった。
ベトナム駐在中に父親を病気で亡くし、その死に目にもあえず、母ひとりをまた東京に残すことになるからだった。兄弟姉妹のない私はいわゆる母ひとり、子ひとりとなっていた。
その母は父のがんが当初から不治と宣告されたことを私には告げず、苦労を重ねていた。なのにまた息子が長期の海外駐在となるのだ。振り返ると、日本人のいわゆる国際化は日本の母の献身や犠牲でなされてきたのだとも思う。
その国際化を日本人が外国で活動することだと定義づければ、である。そんな胸の痛みを覚えながらも、新任地のワシントンでは赴任早々から大統領選挙の取材に追われた。
米国にとってベトナム戦争が終わった直後の選挙戦だったから、外国への軍事介入にはとにかく反対するという民主党リベラル派のカーター氏が人気を集めていた。
ジョージア州知事だったカーター氏は反ワシントンの旗をも高く掲げていた。
相手の共和党フォード氏は現職大統領とはいえ、ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任に追い込まれた後に、副大統領ポストから自動的に昇進した人物だった。
キャンペーン中のテレビ討論会で、フォード候補が「東欧諸国はソ連の影響下にはない」という大失言をして全米有権者をあっといわせた情景も、私は新しく知遇を得た同世代の米国人男女とテレビをみながら、目撃した。
カーター氏が選挙公約として掲げたひとつが在韓米地上軍の撤退計画だった。当時、韓国には合計4万1千人ほど米軍が駐留し、そのうちの約3万2千人が地上部隊だった。地上軍の主力は陸軍歩兵師団約1万4千人である。
カーター氏の公約はこの地上部隊を5年以内に全面撤退させ、残る在韓米軍は空軍だけにするという案だった。その理由は万が一、北朝鮮軍が韓国に侵攻した場合、米地上軍は自動的に戦闘に巻き込まれ、米国自体が全面介入を迫られるため、地上軍を引き揚げて、選択の余地を残そうという趣旨だった。
韓国の朴正煕政権はこの撤退案に激しく反対した。
有事に韓国を防衛することを誓っている同盟国の米国がその防衛の主力を除去するというのだから韓国側にパニックが起きても当然だった。
なんとか米国の政府や議会に働きかけ、この撤退案をひっくり返そうと意図しても当然である。そのための対米買収工作の中心人物が朴東宣氏らしいという疑惑が表に出たのだった。
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5829 在韓米軍が撤退すれば 古森義久

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