中国に関する報道、特に中国特派員の報道について私のメメールマガジンにも苦情が寄せられる。政治問題を取り上げないとか、情報が遅いなどと言ったことである。
しかし、結論を言えば、中国とは共産党政権であって、基本的には報道の自由の無い国であることを忘れての「苦情」が多い。しかも1974(昭和49)年1月5日に交わされた「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)に「拘束」されていることを一般の人は知らない。
この覚書をたてにこれまで何人もの特派員が強制退去を命じられている。1968(昭和43)年6月には日本経済新聞の鮫島敬治記者がスパイ容疑で逮捕され、1年半に亘って拘留された(鮫島事件)。
1980年代には共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。
1990年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。
このように、「中国共産党に都合の悪い記事」を書くことは、事実上不可能となっている。読売新聞社は、「記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している」としている。
こうして追放されたり、睨まれた記者には中国は2度と入国ビザを発給しない。つまり「中国語」を売り物に入社したこの記者は、中国に睨まれたことが致命傷となって社内でも失業状態に追い込まれる。こんな危険を冒す者は変わり者以外に無い。
しかしこの覚書は日本側のいわばフライングが招いた「身から出た錆」なのである。国交正常化以前に中国特派員送り込み競争を演じる日本マスコミ界の足元を見た中国が、取材制限のハードルを高くした。それなのにマスコミ各社はそれを唯々諾々と呑んだのだ。
<紆余曲折を経て、1962(昭和37)年には、日本と中華人民共和国との間で「日中総合貿易に関する覚書」が交わされ、経済交流(いわゆるLT貿易)が行われるようになった。
1964(昭和39)年9月には、このLT貿易の枠組みの中で記者交換協定が結ばれ、読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・産経新聞・日本経済新聞・西日本新聞・共同通信・日本放送協会(NHK)・TBS(現:TBSテレビ、当時の東京放送)の9つの日本の報道機関が、北京に記者を常駐できることとなった>。「ウィキペディア」)
ところが、この協定には重大な「毒」が入っていた。
(1) 日本政府は中国を敵視してはならないこと。
(2)米国追随して「二つの中国」をつくる陰謀を弄しないこと。
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げないこと。
中華人民共和国政府の外務省報道局は、各社の報道内容をチェックして、「政治三原則」に牴触すると判断した場合には抗議を行い、さらには記者追放の処置もとった。
記者交換協定の改定に先立つ1967年(昭和42年)には、毎日新聞・産経新聞・西日本新聞の3社の記者が追放され、読売新聞と東京放送の記者は常駐資格を取り消されている。
この「協定」から現行の「覚書」まで約束の細かいところ、たとえば滞在記者の人数などはこれまで何回も改訂されているが、三項目は絶対条件になっている。
その後、外務大臣秘書官となった私は、それ以前は政治記者だったこともあって協定に格別な関心を持って中国側に対応したが、中国は基本的にマスコミを「敵」とみなしており、外国人記者は反革命分子としか認めておらず、取材の自由を与える事は国家的な危険を冒すことだと考えている。
余談だが、1972(昭和47)年9月、日中国交正常化交渉の為、日本の総理大臣として始めた北京を訪問した田中角栄首相。私も記者として同行したが、中国は日本人記者団を近距離記者と遠距離記者に分断。カメラマンは望遠レンズの使用を禁止された。中に銃を隠せるからが理由だった。
こうした中国の態度に日本のマスコミ各社は手を焼いているが、だからと言って妙手があるわけじゃなく、泣き寝入りが現状だ。中国報道が中途半端だったり、隔靴掻痒の感がする理由の一端を紹介した。マスコミはいちいち、こんな説明をしないだけ。
中国の裏情報に接する方法としては「大紀元」があるが、例えばこれを新聞社が転載しても何らかの報復措置を覚悟しなければならない。宮崎正弘さんのように、観光客として訪問した見聞とか、英字紙から中国情報を拾い出すのが安全といえるだろう。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
5838 規制されている中国報道 渡部亮次郎

コメント