東北新幹線の北上駅に近づくと和賀川と北上川が見えてくる。雪解けの時期には水量が増して、まさに滔々たる大河の面持ちをみせてくれる。和賀川沿いに奥羽山系に向かうと和賀郡、和賀町、西和賀町と四〇〇年前に滅亡した和賀氏にちなむ名前の地が多い。
奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は東北に有力な御家人を配置して、今の北上市、東和町、西和賀町などを含む広い地域を鎌倉幕府の直轄地とした。地頭に任命されたのは和賀左衛門尉入道俗名義行。その父親は苅田(かった)平右衛門入道義季、今の宮城県苅田郡の地頭である。
この苅田氏の出自は武蔵七党系の小野姓横山党(姓氏家系大辞典)。義季と義行の名は東鑑(あづまかがみ)に出てくる。小野系図には義季の父・成尋について「成南寺修行」とあるから、鎌倉御家人となった後に剃髪した”坊主武士”なのだろう。子の義季と、孫の義行の名にも「入道俗名」がついているから、戦の後に仏門に入る一族だったのかもしれない。
しかし源頼朝ら鎌倉勢が奥州藤原氏を滅ぼした後も「大河兼任の乱」が起こっている。奥州藤原氏の家臣団が一万騎で鎌倉を目指したというから、とても鎌倉御家人の地頭が、恩賞として与えられた領地の経営に当たる状況ではなかった。和賀義行が和賀地方の地頭になった時期がはっきりしていない。
この和賀一族の時代の重要史料として「鬼柳文書(おにやなぎもんじょ)」が残っているが、そこにも和賀義行が和賀郡に来た時期が記されていない。そこから奥州合戦で功績をあげた鎌倉御家人が実際に東北各地の任地に赴いたのは、だいぶ後のことになるという見方が出ている。
頼朝は1199年に死亡し、頼家・実朝の源氏三代が絶えると執権の北条氏が鎌倉幕府の実権を握った。1221年の承久の乱の後に置かれた新しい「新補地頭(しんぱじとう)」が和賀左衛門尉入道俗名義行だったとみられている。
「鬼柳文書」の和賀氏系図には、1245年に和賀義行が子供たちに分け与えた分割領地が記載されている。また和賀家臣にも領地が与えられた。分家の小田島氏の領地が最大だったという。
和賀一族について語ろうとすれば一冊の本になる。しかも解明されていない歴史が多々ある。それは南部藩との戦いで和賀一族が滅ぼされ、「鬼柳文書」を除くとめぼしい歴史史料が消えてしまったことに原因がある。勝者の歴史は後世に伝わるが、敗者の歴史は伝わらない典型といえる。
だが歴史史料が消えてしまっても、和賀遺臣が残した足跡は和賀郡の各地に遺構や言い伝えとして残った。何よりも和賀町、西和賀町の地名、和賀川の名称が風雪を経て現代に残っている。地方史の研究学徒にとって和賀一族の興亡史は魅力ある研究テーマであることに変わりない。
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5854 和賀の名の由来は鎌倉御家人の和賀氏 古沢襄

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