キルギスで住民投票が成立、新憲法が承認。しかし脆弱な軍では治安維持が不可能、ロシアは依然静観。民族衝突による虐殺が続き、ウズベク国境への難民が30万人。8月10日まで南部の都市オシェは戒厳令が敷かれたまま、キルギスの軍隊2000人が駐留している。
キルギス族とウズベキスタン系の民族対立が相互不信から暴動、虐殺にいたり、おそらく二千人以上が犠牲になった(公式発表は死者294名)。
現地の風習では死者を日没前に弔い、埋葬してしまうため、正確な犠牲者の数字の把握は難しい。オトゥンバエワ臨時政権は「調査委員会」を設置して真相究明にあたるとしたが、国連ならびに国際赤十字は第三者機関による調査を要請、キルギス政府はこれを拒否した。
ともかくキルギスの騒擾に対して国際的関心が希薄で、ロシアがなかなかPKFを送ろうとせず、親ロシア派の政治家=オトゥンバエワ臨時大統領の権力基盤は不安定のままである。
6月27日、危ぶまれた国民投票が実施され、なんと投票率72%(信じられない数字)、この裡の91%が憲法改正案を支持したそうな。
この結果、キルギスでは議会選挙が十月に実施され、また政党結社の自由はあるが、民族単位、宗教派閥単位の政党は認められないこととなった。キルギスの政情、まだまだ落ち着くまい。
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★読者の声 ☆どくしゃのこえ ☆DOKUSHANOKOE ★読者の声
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(読者の声1)貴誌3011号(読者の声3)に「近藤勇は埼玉の貧農の出身だったが、強い指導者であった」とありますが、近藤勇は貧農の出身ではありません。江戸時代の貧農と言うのは水呑みのことです。
近藤は武芸だけでなく教養があり郷里の人々に京都から立派な手紙を出しています。貧農は生きるだけで手一杯で勉強する時間などありませんでした。中農出身でしょう。惜しい人材でした。(東海子)
(宮崎正弘のコメント)近藤勇の百年忌だったか、上野寛永寺で法要が営まれたおりに、三島由紀夫が花輪を出したという記録があります。
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(読者の声2)貴誌のすこし前でしたか、菅直人首相が「奇兵隊内閣」を標榜したことに対して、おこがましいと叱責されていましたが、それは維新の志士の意気込みをもてという意味で前向きに評価してもいいということとは無関係ですか。どういう意味なのか、いまひとつ解せませんが。(JJ生、山口県)
(宮崎正弘のコメント)高杉晋作は毀誉褒貶はげしい人ですが、すくなくとも尊皇の志がありました。菅直人さんは市民運動出身の左翼ですが、国歌・君が代を「歌いたくない」と言った人で、天皇在位二十年式典でも壇上で寝ていた(だから「ルーピー」〔鳩山〕から「スリーピー」(菅)とからかわれるのですが)、そういう意味からしてもおこがましいと思います。
ところで。畏友・中村彰彦氏が奇兵隊と高杉晋作に関して下記のような面白いエピソードを披露しています〔『週刊現代』7月17/24日号の岩見隆夫氏との対談で〕。
第一に幕末長州の軍隊は「奇兵隊」ばかりではなく『鴻城隊』「遊撃隊」など非正規軍があった。『長州諸隊』というが、そのなかで、「一番たちの悪いのが奇兵隊だった」
第二に農民、町民を平等に採用したという教科書の記述は不正確であり、町人には町人の合い印をつけて差別していた。隊員の給与は中間搾取されていた。長州の『金権体質』は、ここから始まった。
第三に長州藩は密貿易でさかえ表面36万石に対して実質100万石前後あり、軍資金が豊か。物資をどこへ動かすかを知っておりリアリストが輩出したのも当然。密貿易の金庫からカネを引き出して高杉は下関で芸者をあげて一夜に千両使ったことも数回に及ぶ。らんちき騒ぎの豪快さは桂小五郎にも共通する。京都で会津が嫌われたのはカネの使い方がみみっちいからだったとか。
第四に長州人は酷薄なタイプが多い(そう、菅も)。
第五に戊申から函館五稜郭へ攻め上るまでに奇兵隊は増殖し続け最後は2529人にふくれあがっていた。山口政庁は全員を食わせられないので馘首すると、半分が逃げ出し、なんと山口城に銃を向けて反撃、使った弾薬は日に七万発。五稜郭総攻撃と同じ。結局、藩へ反抗した者らは斬首89,切腹9人を含めて221名が処罰をされている。逃げ出した中には瀬戸内海の無人島へ逃避行し、明治初期まで銃を振りかざしての海賊行為を重ねた。
とまあ、こういう真実も知っておくべきでしょうねぇ。誰か『奇兵隊始末記』も書くべきでは? 浅田次郎さん、やるかなぁ。
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5867 一番たちの悪いのが奇兵隊? 宮崎正弘

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