5883 渡台していた根本博陸軍中将 古沢襄

紀伊国屋書店に二冊の本を注文した。いずれも私が追い求めたことがある事件と歴史上の謎。「この命、義に捧ぐ 門田隆将」と「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く 梅原猛」の二冊である。
昭和39年暮れのことだが、旧日本軍の将官クラスが台湾に大挙密航したという事件情報。橋本官房長官の秘密メモが官邸記者から外務省担当記者に伝えられた。公安情報ではないかと疑りながら、下田外務次官に会って質したのだが、「さあ、知りません」とトボケられた。
翌40年1月に台湾の軍事視察のために渡航した。日本の陸軍士官学校(三十九期生)を出た荘南園国府軍大佐が日本記者団に同行してくれたが、金門島要塞の偵察陣地で「根本中将はまだ金門島にいるのですか」とさりげなく聞いてみた。
それまでに確証はないが、旧日本軍の根本博陸軍中将らが渡台して、金門島に配置された五万一千の国府軍守備部隊の軍事指導に当たったという日本の公安情報を入手していた。荘南園大佐の口は硬く、方法を変えて東京で旧知だった台湾人の記者・李哲朗氏にも情報入手を頼んだ。
五万一千の国府軍守備部隊といってもほとんどが実戦経験がない台湾人兵士。これでは米式装備を持ったオモチャの兵隊だと思ったものである。しかし、このオモチャの兵隊が、金門島、馬祖島に上陸作戦を試みた中共軍を再度にわたって撃退した。
台湾人サイドからの情報取材でも、裏付けを得られないまま帰国した。それから30年の歳月が経た時に今度は中国側からこの情報が流れた。翻訳すると
<<蒋介石を援助した日本将校は“白団”の名によって、20世紀の 50―60年代に直接的に台湾海峡両岸の軍事が対抗することに参加したとしている。 海峡両岸の軍事とは中国軍による金門島、馬祖島の上陸作戦。
中国側の資料では、実際に作戦指導に当たったのは、根本中将だと断定している。また蒋介石が根本中将を頼りにしたことについて、米側は必ずしも好意的でなかった記述もみえる。この時期は第二十回国連総会で中国の国連加盟が支持47.不支持47,棄権20と接戦を演じていた。>>
日本の公安当局も台湾の特務機関も秘匿していた軍事情報だから中国側の資料でも全貌が窺えない。「この命、義に捧ぐ 門田隆将」の本は、根本中将の周辺から出た真相なのであろう。
梅原猛氏の「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く」は日本古代史の謎に迫っている。古代出雲国に朝鮮半島の新羅と交流があった王朝があったといわれている。ヤマト朝廷が成立する過程で滅ぼされている。京都美人のルーツは出雲美人だという説がある。
奈良から平安朝にかけて公家貴族は、滅ぼした出雲王朝の美人を争って京都に連れてきたという。葬られた王朝の歴史史料は乏しいが、梅原日本学の切り口で謎解きしてくれるのだろう。
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