先日、月刊WiLL8月号を読んでいたところ、拓殖大大学院の遠藤浩一教授の『菅直人総理』という亡霊――第三の道か破壊主義か」という記事が非常に興味深かったので紹介しようと思います。私はこれまで、菅首相や仙谷由人官房長官、鳩山由紀夫前首相には国という枠組みを否定・軽視したいという傾向があるのではないかと何度か書いてきましたが、遠藤氏はその点を平成10年に菅氏にインタビューした経験談をもとに分かりやすく説いています。
遠藤氏は、「自立した市民が共生する社会を作りたい」と述べる菅氏に、なぜ「国民」ではなく「市民なのか」という点について質問したそうです。以下、少し長くなりますが、WiLLから引用します。
《そこで、私は、こう訊きました。「市民」という用語の濫用は、むしろ菅さんが問題視しておられる公共心の欠如にアクセルをかけているように思われます、自立した市民の育成というのは、要するに公への責任感の回復ということでしょう、公共の利益の大事を説く菅さんこそ、「市民」ではなく「国民」という言葉を使うべきでは?
これに対する氏の回答は、「そうかな。日本人ほど日本に対する所属意識が強い人間はいないんじゃないかな。日本には亡命という文明がない。日本人は日本人の中に閉じこもっています。だから愛国心がないというのも大嘘だと思う。ある状況になれば、大きく動くと思うよ。日本人は意識の深いところで、しっかり国家に所属していると思いますよ。むしろ足らないのは市民意識で……」というものでした。
私などは、亡命という文明(?)がない日本人はつくづく幸福な民族だし、意識の深い部分で国家に所属しているのは決して悪いことではないと思うのですが、菅氏はそうは考えていないらしい。ご自身はともかく、日本人はしっかり国家に所属していると思っているらしいのです。じゃ、日本人を信じているんですね、との重ねての問いに対する返答は、いささか驚くべきものでした。
「逆だよ。そういう無意識的な所属意識しかないというのは問題だと思っている。国家というものがアプリオリにあって、そこに国民がいて、それで国家を大事にという発想が、僕の中ではちょっと違和感があるんだ」
――天皇はどうですか?
「天皇制というのは歴史的なものとしてまさに尊重すべきだと思う。僕のイメージの中の国家とは全く別だよね。国家というものはアプリオリにあるものではなく、自立した市民によって作られるべきものなんだ。そのとき国家に対する潜在的な帰属意識は、むしろそれを妨げる働きをする。国家という形での価値ということには、僕はやはり……」
――抵抗がありますか?
「うん。それは必ずしも戦後革新的な抵抗感ではなくて、何か、薄っぺらな感じがするんだよ」
こうした問答を通して、私には、菅氏の国家観、否、脱国家観というものがほの見えてきました(略)》
…このやりとりを読んで私は、菅氏は歴史の流れをいったん断ち切り、国民を統合している国家という「物語」を否定し、あるいは新たに人工的な、自分の好む形に作り替えたいのだなと感じました。そして、私が尊敬する「国の歴史とは国民の物語」であると説いた故坂本多加雄学習院大教授とは対極的な立ち位置にあるな、とも。坂本氏は8年前に惜しまれながら亡くなりましたが、今、健在だったら、菅政権について何と評するだろうとも考えました。私は坂本氏について当時、こんな追悼記事を書いています。
《【葬送】学習院大教授 坂本多加雄(さかもと・たかお)氏 [ 2002年12月22日 東京朝刊 社会面 ] (21日、東京・永田町の星陵会館で「偲ぶ会」)
◆幕末の志士「君よく闘えり」
しのつく雨に、会場のあちこちから「涙雨だね」の声が聞こえた。三浦朱門・元文化庁長官はあいさつで「きょうの天候は私たちの寂しい、無念な気持ちを象徴するようだ。坂本先生はさながら幕末の志士のような、国士ともいうべき人だった」と若すぎる死を惜しんだ。
昭和二十五年、名古屋市生まれ。過去への「共感」をもとに日本の新たな自画像を探った著書『象徴天皇制度と日本の来歴』で読売論壇賞を受賞するなど気鋭の政治思想史学者として注目され、平成九年の新しい歴史教科書をつくる会発足時には理事に就任。民間憲法臨調の委員も務めた。本紙「正論」欄の執筆メンバーとして「友好偏重外交の錯誤」や「政教分離論の非常識」などについて積極的に発言、活動の場は“書斎”にとどまらなかった。
靖国神社に代わる国立追悼施設を検討する官房長官の私的懇談会「追悼懇」では、委員十人のうちただ一人明確に新施設建設に反対。これからの活躍を期待されたが、初夏ごろから体調不良を自覚していた。
「苦しかったと思いますが、苦しいとも治りたいとも言わなかった。我慢強い人でしたが、こうした仕事が途中になったのは無念だったでしょう」
まだ結婚十年という妻、彩也子さん(四〇)は夫の闘病生活をこう振り返る。発病後も「追悼懇だけはできる限り出席したい」と論議の行方を気にかけていたが、病魔の進行は早く、十月二十九日、胃がんのため志半ばの五十二歳で亡くなった。
大学時代から三十年近い親交のある弁護士、中島修三さんが弔辞で「君が果たしえなかった諸々の国民的使命をぜひとも達成しなければならない」と遺志継承を表明し、「坂本よ、君よく闘えり」と故人を称賛。約百五十人の参列者全員で、故人をしのんで「海ゆかば」を斉唱して閉会した。(阿比留瑠比)》
…この記事の中に出てくる「象徴天皇制度と日本の来歴」については、私が宮内庁を担当していた平成7、8年ごろ、同庁幹部から「読売さんはこういう素晴らしい本にきちんと賞を出している。産経さんも頑張らなきゃね」と言われ、ちょっと悔しい思いをした記憶もあります。確かにいい本でした。
ですが本日はそれとは別に、坂本氏が平成10年にPHPから出した「歴史教育を考える 日本人は歴史を取り戻せるか」という著書から、当時、私が読みながら「我が意を得たり」と傍線を引いた部分をいくつか紹介します。以前、引用した菅首相が師匠とあおぐ政治学者、松下圭一氏とは180度、考え方の方向性が違います。
《近代国家において最も大切だったのは、やはり物語の共有だったと考えられる。というのは、民族、言語、宗教などの要素は、確かに国家形成の大きな力となるが決定的なものではないのが、実際の多くの国民の例から明らかだからである》
《ベネディクト・アンダーソンは国家を「想像の共同体」と呼んだが、その意味ではまさに国家は想像上の存在でしかない。日本国民といってみたところで、手で触れることのできるのは、日本人という属性を備えた個人に過ぎない。(中略)そこで、「国民は想像の産物に過ぎない」とか「国家はフィクションでしかない」という言い方がなされることが多く、そう発言することで、国家や国民を否定したり相対化できると考える人々が登場してくる。だが、そういう人々の思いこみとは逆に、そうした「想像」が、人々の心中にありありとしたリアリティを伴って厳然と存在していることは否定できない》
《経済がボーダーレスになったことは確かだが、お金と物は国境を越えて動いても、大部分の人はそれほど移動することはないからだ。現在、頻繁に国際社会を移動しているのは、たとえば天才的なピアニストや芸術家あるいは科学者であって、彼らは世界中どこにいってもその能力や技能を発揮することができる。それは彼らの持つ能力や技能が普遍的な価値を有しているからである。また、最底辺の単純労働者もボーダーを越えて動いている。単純労働は複雑な知識や言語コミュニケーションを必要としないためだ。だが、大部分の技能や労働は特定の言語と特定のコミュニケーションの仕方、風習、文化を共有するところでのみ意味を持つ。特定の社会にあってはじめて能力を発揮できる仕事がほとんどなのである》
《注目すべきは、それまでの国民の物語をご破産にするのではなくて、その国家の物語を過去との連続性のなかで書き換えることで、国家の構えをより国際的にしていくという過程が続いているということである。現在のヨーロッパ諸国は、かつてはひとつの共同体であり、それぞれの特色を発揮し発展する国家の時代を経て、いまや再び統合されるという物語があり、そしてそれぞれの国家にとっての統合の意味が語られる物語が形成されつつあるのである》
《国家は、ウェーバー的な意味では基本的には「暴力の独占装置」であり、そのことで治安を守るという側面がある。国家が文字通り解消すれば、そこには私的な暴力集団が治安を維持するという社会が出現するだけのことである。(中略)「国家の解消」に、あらゆるプラスのイメージを持ち込んで現在の国民国家を批判し、さらに解体を唱えるというのは浅薄な議論であるだけでなく、危険な思いこみであることが多い。ここには、国内の秩序の保持という基本的な問題への考慮がないだけでなく、他の国との関係を論じる構えもないのである》
…「国家観念の実態性は破綻する」「国家イメージは『市民』と『政府』に分解する」「国家観念は必要ない」と繰り返す松下氏の強い影響を受ける菅氏は、「外交・安保は苦手だ」と漏らし、先日のサミットにもわざわざ岡田克也外相を連れていきました。そもそも、国家自体を否定したいのだから、外交も安保も真面目に考えたことがないのも当然なのかもしれません。
しっかし、日本も本当にとんでもないところまで来てしまいましたね。3年ちょっと前までは、私は日本の前途に大きな期待を持っていたのですが、最近では…。まあ、クヨクヨしても仕方がないので、できることを一つひとつこなしていくしかありません。こつこつと…。
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