5897 内田健三氏の「想いでの走馬灯」 古沢襄

内田健三氏(うちだ・けんぞう=政治評論家)が亡くなった。87歳。六〇年代、内田社会党キャップ、自民党キャップの下で仕事をしただけに、ひとつの時代が終わったという感慨が残る。内田さんの江田三郎さんに対する思いは強烈だった。三木元首相のブレーンといわれたが、江田三郎さんに対する傾倒ぶりは、それを越えるものがあった。
その思いを「想いでの走馬灯」で書いている。
<<むしろいま、私は在りし日の江田三郎との触れ合いのいくつかを走馬燈のように思い浮かべる。
…「江田ビジョン」破れたあと、江田さんはほとんど同時期に東大を退学処分された息子の五月さんと、杉並のアパートで 「二人浪人暮し」を楽しんでいた。満々たる闘志とビジョンと志を抱きながらのこのころの閑居の間に、私の江田さんへの傾倒は深まっていったと思う。
…同じころ、江田さんは衆院転進(63年11月総選挙で初当選)を機に、選挙区の倉敷市郊外に新居を構えた。敷地一万坪と称する駄ボラが反対グループの好餌となったが、何のことはない境界なしの隣りの山すそのお寺の敷地を含めての笑い話。その後始めたゴルフも「ブルジョワ趣味」と非難を浴びたが、悪声を放ったそのころの観念左派の面々はいまどんな顔でクラブを振っているのだろうか。
…その新居の「江田植物園」に、「江田親衛隊」をもって任じる私たち学者、ジャーナリストの一団が押しかけたことがあった。折柄建設中の水島コンビナートを視察し、倉敷国際ホテルに泊まり、大原美術館を鑑質する楽しい修学旅行であった。夜は痛飲して談論風発だったのは言うまでもない。座の中心にあった江田さんはすでに亡く、仲間は散り去り年老いた。
「去年(こぞ)の雪いまいずこ」の感慨は切である。
…江田グループ最後の旅は、70年8月の蓼科高原行であった。江田さんの植物談義は高原の花々に触発されて楽しかったが、夜の論議は深刻であった。既成政治勢力の寄せ集め(社公民連合のような)ではダメだと言い続けてきた江田さんが、現実政治家としては既成政党間のパワーゲームにコミットせざるをえないジレンマが、グループの亀裂、分解を招く結果果となった。江田さんはこのあと、76年の『新しい日本を考える会』を結成、77年の3月の離党-社会市民連合(現社民連)旗揚げへと突き進んで倒れた。
それからまた十五年、内外情勢の革命的変動は、江田さんにジグザグ路線を強いた厚い壁に大きな風穴を開けつつあるように見える。江田さんはいま、あの白髪の温顔に笑みをたたえて「もう一息だよ」とあとに続く者に呼びかけているに違いない。>>
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コメント

  1. 山田みどり より:

    久しぶりに日本で選挙に行きました、帰つて来てメールを見ましたら懐かしい人の名前が出てあの時の事を思い出しました、内田さんお亡くなりになつたのですね、
    だんだん周りの知り合いが少なくなります、それだけ時代を経てきたのですね感無量です、ご冥福を祈りながら,感想まで(みどり)

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