5969 「ゲゲの女房」で想い出す戦後の貧乏生活 古沢襄

麻布高校の一年生になった孫が夏休みになったので、長女と一緒に二泊三日で遊びにきていた。曾祖父の古沢元に似たのか、さっぱり勉強をしないのだが成績が良い。記憶力が抜群に優れているので、授業の内容をその場でインプットする術が備わっていると、ジジ・バカ・チャンリンは目を細めて三日間、孫を見ていた。
高校の一年生というのは、昔風にいえば旧制中学の四年生。私が疎開先の上田中学から東京の都立第四中学に転校してきた頃の年齢である。廃墟と化した東京だから住む家がない。上京して古沢元の実弟・岸丈夫の家に転がり込んだ。
岩手県出身の作家・八並誠一さんの家が東京・野方にあったが、戦災に遭わずに残ったので、その離れに岸一家四人が住んでいた。六畳と三畳の狭いところに五人が寝起きすることになった。水道も無ければ、ガスもない。毎朝、井戸の水を汲むのが日課。
NHKの朝ドラ「ゲゲの女房」を見ながら、野方時代の貧乏生活を懐かしく想い出している。岸丈夫は社会党の機関誌「社会新報」に政治漫画を描いていた。そこに秋田県出身の新劇俳優・森幹太さんと画家の小角又次さんが訪ねてきた。
二人とも秋田鉱山専門学校から海軍予備学生になった少尉さん。復員姿の菜っ葉服で現れ、敗戦で石油掘りが出来なくなったので、新劇俳優と画家になると岸丈夫に相談していた。誰もが日本の将来に不安を抱きながら、その日の生活の糧を求めることに汲々としていた時代である。
一年後に朝鮮で日本鉱業の鉱山所長をしていた私の祖父母が、着のみ着のままで引き揚げてきた。六畳と三畳の狭いところに七人が住むのだから、折り重なって寝るしかない。学制改革で都立第四中学は新制度の都立戸山高校になっていた。
結局、私が家を出て自活することになった。戸山高校の二年生の時にヨット鉛筆の専務宅に住み込みの家庭教師になって、高校に通学することになった。朝、台所で若い女中さんと二人でボソボソと食事をして、女中さんが詰めてくれた弁当を持って飛び出す。学校が終わると鉛筆の廃材で風呂を焚いて、また台所で女中さんと飯を食う。夜は小学校の女の子と男の子の勉強をみてやる。
だが結構、楽しくやっていた。日本中が食うに困っていた時代だから、むしろ恵まれていたという思いの方が強い、勉強を教えた女の子と男の子も素直な良い子たちだった。もう70歳前後になっただろう。
「ゲゲの女房」を見ながら岸丈夫の義弟に当たる漫画家の杉浦幸雄さんのことも想い出している。戦前から「主婦の友」に連載した「銃後のハナ子さん」で大ヒットし、一躍人気漫画家となった杉浦幸雄さんのところには戦後も雑誌の編集者が集まっていた。
漫画が売れだすと寝る閑もないくらい忙しくなる。東京・世田谷にある杉浦宅に泊まると、叔母に当たる富子夫人が朝食にパンを出してくれた。戦後、コッペ・パンしか食べていない私には目を剥くような味。しかし、今になって考えると家の切り盛りを任された富子夫人は、パン食にすることで、朝の時間を短縮する生活の知恵が働いていたと思う。50歳の時に車の運転免許を取るチャキチャキ夫人も今は亡い。
孫をみながら、私のように少しは苦労させた方がいいのかな、と思ったりする。人生なんて山あり谷あり。むしろ谷を彷徨する時間の方が長いのかもしれない。もっとも、そんなことを言えるのは、あと一年半で80歳を迎えるからなのだろう。私の青春時代も、ただ夢中で走っていただけだと思ったりする。
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