西村眞悟さん(前衆院議員)の指摘(「頂門の一針」1988 2010・7・24号)を読んで「オレは歴史の現場に立ちながら北朝鮮に対する認識が全く進んでなかった」と深く反省した。
青瓦台襲撃事件の残党に面談したし、大阪では文世光の取材にもかかわったのに「武力による朝鮮半島統一は、北朝鮮の悲願であり「国是」であるとの認識が無かったばかりに、全く深く考えずにすごしてきた。
<まず、骨肉が争う凄惨な朝鮮戦争は北朝鮮の金日成による武力侵攻から始まった。武力による朝鮮半島統一は、北朝鮮の悲願であり「国是」であり、今も変わっていない。
(もっとも、菅内閣と民主党のなかには、未だに朝鮮戦争は南の韓国がアメリカとともに北朝鮮に侵攻して始めた、と北朝鮮と同じことを言っている左翼がいることに注意)
1968年1月、北朝鮮の武装ゲリラの南侵が失敗する。しかし、武装ゲリラ達は、韓国大統領の官邸である青瓦台近くまで迫った。
このゲリラによる直接的な武力侵攻の失敗を受けて、北朝鮮は、対日工作活動を強化して間接的侵攻を模索する。1970年のよど号ハイジャック事件以来、北朝鮮は対日工作を強化し始めた。
その結果が、1974年8月15日の文世光事件、即ち、朴大統領狙撃事件である。また、この時期、我が国内でも、同年同月30日に三菱重工本社ビル爆破事件が起こり、日韓両国とも騒然たる状況になった。
そこで、文世光事件であるが、これこそ日本経由の南侵モデルとなったもので、日本人拉致と大韓航空機爆破はこの文世光事件から組み立てられた犯行といえる。
ゲリラの直接侵攻失敗以来、対日工作を強化した北朝鮮は、在日韓国人文世光(22歳)を北朝鮮の工作員に仕立てることに成功する。
朝鮮総連生野支部政治部長金浩龍は、文世光に資金を与え射撃訓練を施し日本人の真正なパスポートを用意する。文世光は大阪湾に入った万景峰号の船内で、北朝鮮工作員から、8月15日の韓国の復光節の式場で韓国朴大統領を狙撃せよとの指令をうける。
文世光は、大阪府警の高津派出所から奪われたピストルを持って日本人として韓国に入国し、式典会場で朴大統領を狙撃する。しかし、弾は大統領から外れて大統領夫人に命中する。
文世光は、その場で逮捕され全てを自供して犯行は北朝鮮のテロという事実が判明した。しかし、この文世光によるテロの結果、何が起こったか。
韓国内の世論は、北朝鮮を非難するのではなく、日本を非難し反日暴動が巻き起こった。日韓の国交断絶寸前という状態になった。文世光が在日であること、日本人になりすましていたこと、日本の警察のピストルが犯行に使われたこと等の要因からであろうか、不可解であるが、韓国世論が反日に激高したことは確かである。
そこで、北朝鮮は、この韓国内の現象を眺めて、日本人をテロ犯人に使えば、日韓関係を破綻させ、北朝鮮にとって南侵の絶好の条件が整うと判断した。
ここから生まれてきたのが、日本人拉致と蜂谷真一と蜂谷真由美(金賢姫)の「日本人父娘」による1987年11月29日の大韓航空機爆破テロである。
振り返れば、我が国政府が文世光事件の背景を徹底的に調査し捜索すれば、その後の日本人拉致や大韓航空機爆破は防げたかもしれない。
1974年に時点で、文世光を工作員にした朝鮮総連生野支部政治部長を逮捕し、文世光が射撃訓練をした東京の病院を家宅捜査し、万景峰号を調査しさらに朝鮮総連を徹底的に調べ上げているべきであった。
しかし、時の田中内閣はそのどれもしなかった。その理由は、推測であるが、日中国交樹立を果たしたその次は、日朝国交樹立で締めたいと功名心を燃やしたからだろう。
このように、時の内閣が人気浮揚または功名心から、国家に対する脅威を甘く見れば、相手はどこまでも付け入ってくるのが国際政治である。
この教訓を忘れて、この度も政権の人気浮揚のために、金賢姫をVP扱い有名人扱いしているが、我が国への脅威を忘れた愚かな政治の所業だと言わざるをえない。
我が国政府は、彼女から、日本人になりすました動機そして、大韓航空機を爆破した指令を出した人物の名前、日本人を拉致した犯人の名前と官職などは、明確に聞き取りしておく必要がある。>西村論文から引用。
私が朴政権の招待で韓国を初訪問したのは1973年6月である。そのときは新聞、通信4社の政治記者と一緒だったが、朴「独裁政権」と言う評価が一般的で、マスコミ各社幹部に北朝鮮を民主化勢力と評価する向きさえあった。
そうした中、韓国政府が我々に面会させた男は、青瓦台襲撃未遂事件(せいがだいしゅうげきみすいじけん)で唯一逮捕された事件当時27歳の金新朝(キム・シンジョ)少尉。
それより5年前の1968年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)ゲリラにより発生した、大韓民国(韓国)大統領府(大統領官邸)「青瓦台」への襲撃未遂事件である。わたしは迂闊にもこの事件を知らなかった。
1966年1月に韓国漁船が北朝鮮の魚雷艇に襲撃されて以来、11月と1967年4月には、北緯38度線で大規模な戦闘が発生し、南北の緊張は一触即発の状態であった。ソビエト連邦の情報部の分析では、これらの戦闘を扇動しているのは北朝鮮であった。
北朝鮮は1966年に対南工作を専門とした第283部隊を参謀部偵察局内に設立、内部粛清によって1967年8月12日に第283部隊を朝鮮人民軍第124部隊(現在の第8特殊軍団)に改変して、南進の準備を進めた。
1968年1月、青瓦台の襲撃による朴正煕(パク・チョンヒ)大統領と閣僚の暗殺を狙って、第124部隊第1中隊第1小隊に所属する31名は、韓国軍第26師団の模擬制服で変装して休戦ラインを突破し、韓国領に侵入した。
この際、韓国市民に偶然遭遇しているが、身分証などで住所氏名等を教えさせたうえで「通報すれば一族もろとも消す」等と脅迫して口止めした上で解放した。この韓国市民は、解放された後に警察に通報した。
1月21日、ソウル市内に入ると、持参した日本製の背広とレインコートに着替え、青瓦台800メートル手前の北漢山まで侵入した。しかし、先の市民の通報によるゲリラ情報等により警戒中だった韓国当局に検問を受け、その場で自動小銃を乱射して逃亡。突入は阻止された。
韓国軍と警察部隊の2週間に及ぶ掃討作戦により、1名が逮捕、29名が射殺され、1名が自爆した。また、射殺は27人で、1名から3名が逃亡したともいわれる。2名が重傷を負いながら軍事境界線を越えて帰国したという話もある。
2週間の銃撃戦で韓国側は軍人・警察官と巻き添えの民間人の計68名が死亡した。
唯一逮捕された金新朝の供述により北朝鮮における特殊部隊の存在が明らかになった。また、「軍事独裁を敷く朴大統領が殺害されれば、韓国民衆は必ず労働者革命を起こす」と分析していたという。
また金少尉はテレビカメラに向かって「私は朴正煕の首を取りにやってきた」と言い放ち、韓国国民に衝撃を与えた(現在は、ソウル市内の教会で牧師として働いている)。
金新朝は我々に「本国では南朝鮮は食い物もろくに無い暗黒の国)と教えれてきたから、夜通し照明の点いているソウル市内を見て隊長は「しまった、間違えて東京に来てしまった)と叫んだ、と教えたほか、襲撃の為の訓練の過酷さも語った。
その夜、4閣僚による招宴に招待されたが、戒厳令による夜間外出禁止令発令中とあって、閣僚と言えども遅くまで付き合っていられないと10時ごろ、そそくさと帰宅した。
それでもまだ我々は北との関係が単なる「休戦」状態と言う厳しい状態に置かれていると言う認識が無かった。翌日、板門店を視察。双眼鏡で北側を見ると、向こうもこちらを双眼鏡で監視していたので正直、どぎまぎした。
ゲリラの直接侵攻失敗以来、対日工作を強化した北朝鮮は、在日韓国人文世光(22歳)を北朝鮮の工作員に仕立てることに成功する。
その頃、私はNHK政治部で総理官邸クラブのサブキャップ。管理職目前だったが表向き就業規則違反の韓国旅行を理由に大阪報道部に左遷された。政治部長は「実は田中首相からの転勤要請があった」と白状した。
大阪で政治記者がする仕事は無い。TVニュースのコメントを書きながら床掃除ばかりしていた。そのとき、大阪の文世光(在日韓国人)による朴大統領襲撃未遂事件が起きた。<文世光事件は、1974年8月15日に元大韓民国大統領・朴正煕の夫人、陸英修など2名が在日韓国人の文世光(ムン・セグァン 日本名:南条世光(なんじょう せいこう)、1951年12月26日 – 1974年12月20日)に射殺された事件である。
この日は日本からの解放記念日である光復節の祝賀行事がソウルの国立劇場であり、朴大統領夫妻がその行事に出席している時の出来事であった。
赤化統一を目指した文世光は1973年10月ごろ、朴大統領の暗殺計画を思い立った。同年5月、大阪湾に停泊中の北朝鮮の万景峰号の船中で、朝鮮労働党対外連絡部の工作指導員から朴大統領射殺の指令を受けた。
そして、1973年11月に香港を旅行した際に暗殺実行の為の拳銃の入手に失敗した事から、1974年7月18日に大阪市南区(現在の中央区)の高津派出所で拳銃2丁を盗んだ。
高校時代の知人である日本人女性を利用して、女性の夫名義による韓国への偽造ビザや偽造パスポートを作成するなど準備を着々と進めた。
同年8月6日に拳銃をトランジスタラジオの中身を抜いたケースにしのばせ韓国に入国した。文世光に狙撃を指令し資金を供与、偽装パスポートの作成指示、射撃訓練を行ったのは、大阪の在日朝鮮総連生野支部政治部長の金浩龍だった。
実行までは、朝鮮ホテルに宿泊していたが、事件当日の朝、文世光はソウルパレスホテルのフォード車を借り上げ、正装を着て中折帽までかぶった重厚な身なりで、某商社のソウル支店長と待ち合わせている日本政府高官になりすました。
高級車に乗っていたこともあってか、警備員からも全く疑われる事なく、記念式典会場である南山の国立劇場に潜入した。
国立劇場の中へは本来、招待状を持つ人しか入場出来なかった。しかし、劇場入口を守っていた警察官は、日本語を使う文世光を、招請された外国人VIPと判断し、招待状がないにもかかわらず入れてしまった。
当初、文世光は大統領夫妻が劇場に入場する際に狙撃する事を試みたが、大統領が歓迎の子供達に囲まれていた事から、実行を断念した。
予定通り午前10時に式典が始まり、20分ほど経過した後、大統領が演壇で祝辞を読み上げ始めたところで、文世光は左側の腰に隠した拳銃を抜こうとしたが、誤って引き金に触れ、自分の左側の太股に貫通傷を負ってしまった。
因みに、その時の銃声はスピーカーの音で消され、周囲は誰も気付かなかったという。それでも文世光は、朴大統領が祝辞を読みあげている途中で客席から立ち上がって通路を走り、20m先の壇上に向け2発目の弾を発砲した。
しかし大統領は軍人出身ということもあり、銃声を瞬時に聞き分け、反射的に演壇の後ろに隠れ難を逃れた。3発目の引き金を引いた際は不発だったが、直後、標的を失った文世光が立て続けて撃った4発目の弾が、椅子に座っていた大統領夫人の陸英修の脊髄に命中。
第1弾が発射されてから、わずか7秒の出来事だった。最後の1発は、演壇の後方にある太極旗に当った。
陸英修はソウル大学付属病院に搬送されたが、当時のソウル大病院における最高技術をもっての5時間40分におよぶ手術もむなしく、同日午後7時に死去した(49歳)。ちなみに、頭部付近に弾丸が命中し椅子から崩れ落ちるシーンは、アメリカCBSソウル支局のカメラクルーが撮影したものだった。
また式典に合唱団の一員として参加していた女子高生・張峰華(当時17歳)も応戦したSP隊員の撃った流れ弾に当たり、死亡した。
大統領は、夫人が重傷を負い病院に搬送されたにもかかわらず、「私は大丈夫だ」と言って、麦茶を一杯を飲み終えた後、何事もなかったかのように最後まで毅然として演説を続け、その場に居合わせた観衆からは大きな拍手が送られた。しかし、式典の終了と同時に病院に駆けつけ、夫人の死亡を耳にした際には、その場で大声を上げて泣き崩れたという。
10月7日に初公判が開かれ、文世光は法廷に立った。文世光は大筋で犯行を認め、10月19日の1審(死刑判決)、11月20日の2審(控訴棄却)、12月17日の大法院における終審の全てにおいて死刑が宣告された。
宣告から3日後の12月20日に、ソウル拘置所の処刑場において、拘置所長が文世光の死刑を確認する判決文を朗読した後、検事や牧師、刑務官など約10人が立ち会いのもと、「私が愚かでした。韓国で生まれたらこんな犯罪は犯していないでしょう。朴大統領に心から申し訳なく思うと伝えて下さい。国民にも申し訳なく思うと伝えて下さい。陸夫人と死亡した女子生徒の冥福をあの世に逝っても祈ります。
朝鮮総連に騙されて、大きな過ちを犯した私は愚かであり、死刑に処せられて然るべきです」と涙ながらに最後の言葉を録音で残し、家族に対しては「母には、息子の不孝と期待に背いた事を申し訳なく思うと伝えて下さい」という遺言を残し、午前7時30分に文の死刑が執行された。
事件翌日の8月16日に、大阪府警は前述の日本人女性を旅券法違反の容疑等で逮捕すると同時に、文世光の自宅を捜索した。その際、大統領暗殺宣言と韓国革命を主張した「戦闘宣言」と題した論文や、盗難された拳銃2丁のうち1丁と弾丸などの証拠品を発見、押収した。
8月17日に捜査当局は、事件は朝鮮総連の指令、援助によって実行されたもので、逮捕された日本人女性とその夫、並びに金浩龍が共犯者であると発表し、日本政府に対して捜査協力を要請した。
これに対して日本政府は、事件と朝鮮総連の関係は明白ではないとして慎重な姿勢をとっていたものの、国内法の許す範囲で捜査に協力することを決定した。
この一連の事件の為、日韓関係は国交正常化後、最悪の状態に陥った。韓国側の捜査によれば、朝鮮総連の関与は明白であったにも拘わらず、日本側がそれを明確に認めなかった事、文世光が所持していた拳銃が大阪府内の派出所より盗まれた物であった事による。
謝罪のない日本側に対し、朴大統領は「日本は本当に友邦なのか?」と問いただし、ついには「中共だけが一番なのか。(日本と断交しても)安保、経済に問題はない」、「日本は赤化工作の基地となっている」という言葉まで出た。
しかし、大統領の側近が「このまま断絶してしまえば、今までの苦労が水の泡になってしまう」と説得し、日韓双方で、日本政府が遺憾の意を表明する。
かかる事件の再発防止。 捜査についての日本政府の協力。 日本から特使派遣の合意をすること。 という内容で合意し、最悪の事態はまぬがれた。
事件から4日後の8月19日に執り行われた葬儀(国葬)において、式を終えて涙を拭いながら青瓦台へ戻る軍服姿の朴大統領の映像が日本においても配信され、日本からは田中角栄首相(当時)が出席した。その際、田中の「えらい目に遭われましたね」という言葉に、大統領は非常に憤慨したと言われている。
田中にすれば韓国人同士の事件、朴は韓国人ではなく日本から来た実質日本人による事件と言う実感だから憤慨したわけだ。
加えて、8月29日に木村俊夫外相(当時)が、国会答弁の中で「客観的に見て、韓国には北朝鮮による脅威はない」と述べたことで、かねてから日本国内で引き起こされた金大中事件に対する日本からの非難を受けたことにより鬱積していた反日感情が一気に爆発。
連日日本大使館前には抗議のデモ隊が押し寄せ、9月6日には群集が日本大使館に乱入し日章旗を焼き捨てる事態にまで発展した。その後急速に関係は悪化し、国交断絶寸前にまで至った。
事態を見かねた日本政府は、9月19日に自民党親韓派の重鎮として、韓国国内でも評価の高かった椎名悦三郎副総裁(当時)を政府特使として訪韓させ、日韓の友好関係を改めて確認することによって、両国間での問題決着がはかられた。
朴大統領は椎名特使との面談の席上で、「日本政府が私達を友邦と考えるなら、喪中にある大統領一家や国民が悲しみと怒りに満ちているこの時に…」とし、「日本が引き続き、こんな風な姿勢を取れば、友邦とは認められないのではないか」、「(日本の姿勢は)政治と外交、法律に関係なく、東洋の礼儀上、ありえない事」、「日本外務省には秀才やエリート官僚が集まっていると聞いたが、どうやってこのような解釈ができるのか」など、激しい言葉で日本を糾弾した。
なお、日本を「赤化工作基地」とみなす認識は、反共的な韓国の保守派・右派にとっては長らく反日感情の源泉となった。
また、この事件は金正日に「在日韓国人がテロを起こしたらどのようになるか」という考えをもたらし、それが大韓航空機爆破事件で、2人の北朝鮮工作員を日本人化させ、結果として日韓関係を打ち砕こうとする策略のヒントをもたらしたと言われる。
2002年朴正煕・陸英修の長女、朴槿恵(当時ハンナラ党副総裁)が北朝鮮を訪問した際、金正日総書記が北朝鮮の関与を認めて謝罪した。ただし「部下がやった事で自分は知らなかった」と述べた>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
<1974年に時点で、文世光を工作員にした朝鮮総連生野支部政治部長を逮捕し、文世光が射撃訓練をした東京の病院を家宅捜査し、万景峰号を調査しさらに朝鮮総連を徹底的に調べ上げているべきであった。
しかし、時の田中内閣はそのどれもしなかった。その理由は、推測であるが、日中国交樹立を果たしたその次は、日朝国交樹立で締めたいと功名心を燃やしたからだろう>
西村さんは、このように指摘するが、田中角栄に「国際感覚」を求めるのは酷である。歴史観もなかった。
かく言う私も同様である。青瓦台襲撃未遂事件、文世光事件がつながっておりことを系統的に追跡取材する必要性を感じなかった。マスコミも同様だろう。これらの事件が北による日本人大量拉致事件とつながっていると考える記者は知らなかった。
例えば大阪で南北が覇権を賭けて日々争っていると言う発想をする記者はいなかった。文世光事件をして、北による日本人拉致事件を予想出来る態勢が大阪府警にあったかどうか。その取材を指揮できる記者かデスクがいたか。いなかった。残念ながら私には能力を超えていた。
拉致事件を穿り出し、報道したのは産経新聞だけだった。警察当局は勿論、政界でも誰一人信じる人はいなかった。今回の拉致事件担当相による売名パフォーマンスをマスコミが非難しないのは自らの足許が暗いからである。
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