5993 千曲市上山田にある祖父の墓 古沢襄

私の父方のルーツは一〇代300年にわたって解き明かし「沢内農民の興亡」という本にまとめて出版したのだが、信州の母方のルーツは手つかずにままである。ルーツを解き明かすというのは、かなりの力仕事になる。足腰が丈夫なのは50歳台まで、還暦を越え、古希を越えると、母方のルーツ探しはあきらめるしかない。
それでも死ぬまでに一度は行っておきたいと思うところがある。それは母・真喜の実父、私からいえば実の祖父に当たる山崎由信(よしのぶ)さんの墓。山崎家は長野県更級郡上山田村(現在は長野県更級郡上山田町上山田から長野県千曲市上山田になっている)きっての豪農だった。その家の次男に生まれた由信さんは、東京の旧制中学を出ている。
明治14年10月1日生まれの由信さんは、明治43年に長野県上田市の木村家に婿養子になって入った。相手は上田小町といわれた静司さん。木村家の一人娘として明治20年12月16日に生まれている。こちらも長野県立上田高等女学校を卒業した才媛だったから、由信・静司の縁組みは人も羨むものだったろう。
ところが29歳で婿入りした由信さんは、商家の生業には向いていなかった。おまけに酒を飲むと荒れるアルコール中毒だったという。二年後に協議離婚となっている。私も大酒呑みなのだが、祖父の由信さんの血をひいているせいなのだろう。協議離婚は明治45年1月8日、私の母が2歳の時であった。数年後に由信さんは上山田で病死している。その墓を母は一度だけ詣でていた。
一度だけ山崎家の当主と会ったことがある。敗戦後、間もない頃だったが、上田を訪れたこの人は「真喜さんはお元気か。一度、お母さんと一緒に上山田温泉にいらっしゃい」と私に言った。温泉場から少し入った山の中腹に山崎家があるという。
母の従兄に当たる人は痩せた背の高い人だったという印象しかない。山崎家の庭で撮した写真も貰った。写真の一番前に銀行の頭取だっという老人が籐椅子に座り、母の従兄は左後ろに立っている。この老人が私の祖父の兄なのであろう。邸内にはこのような庭園がいくつもあるという。
母が死んで山崎家との糸はぷっつり切れてしまった。風の便りで山崎家は上山田温泉で豪壮なホテルの経営者になっていると聞いたこともあるが、夜討ち朝駆けに追われた政治記者の毎日だったから、永田町生活にどっぷり漬かって歳月だけが過ぎていった。
80歳を目の前にして、一度だけでよいから祖父の由信さんの墓を詣でたいと思うようになっている。私も大酒呑みだから酒の失敗はいくらでもある。酒が原因で上田小町と離縁になったのは祖父が31歳の頃であろう。上山田に戻った祖父は、酒に溺れて数年後に亡くなった。
祖父の墓に詣でる人はいないであろう。血をひいているのは私しかいない。線香も花もいらないから、一升ビンを下げて、墓の前で飲みあかしたい。酒飲みだけが分かる男の情けである。だが山崎家の菩提寺も墓のありかも知らない。思いだけが募る夏となった。
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