私の産経新聞の連載の紹介です。今回は「社会主義勢力は平和愛好」というような日本のかつての左翼信仰の虚構がどう崩れていったかの報告です。もっとも2010年のいまこの「神話」は形を変えて、よみがえっているようですがーーー
■左翼神話の崩壊へ
トウ小平という人物はやはりすごい迫力の専制的リーダーだと実感した。米国の首都ワシントンにきて、カーター大統領らに「ソ連が覇権を求め、戦争の準備をしている」とか「ベトナムのカンボジア侵略はナチスの行動に等しい」などと荒っぽい言葉を吐くのである。1979年1月、米国との国交樹立を機としての訪米だったが、対米関係では「米中両国は第二次大戦では肩を並べてファシストと戦った」と、日本を共通の敵とした歴史をこれまたぐさりとした表現で述べて、米中連帯を説くのだった。
カーター政権はベトナム戦争にはもう悩まされない平和の新時代を迎えたはずだったが、現実にはもっと大きな国際的激動に直面することとなった。米国の歴代政権が同盟相手としてきた中華民国(台湾)との政府同士のきずなを断ち、中華人民共和国との国交を樹立したことも激変のひとつだった。米中の接近は当然、ソ連を硬化させた。
一枚岩として米国帝国主義と戦ってきたはずの共産主義圏のソ連、中国、ベトナム、カンボジアなどの諸国がたがいにののしり合い、戦いを始めた。
ベトナムでは米国とその手先の政権が去れば、すべてのベトナム人が政治信条にかかわらず民族和解を果たすはずだったのに、共産党の過酷な革命と独裁が始まった。旧南ベトナムの普通の住民までが新社会からは腐敗分子として排された。米国でも革命側に支援を送っていた歌手のジョーン・バエズや女優のジェーン・フォンダが戦争中の自分たちの認識が誤っていたと認め、反省を告白した。
カンボジアではポル・ポト新政権(クメール・ルージュ)による一般住民の大虐殺が明るみに出た。日本でもポル・ポト政権の統治を「アジア的優しさのあふれた明るい社会主義」とたたえていた朝日新聞的論調が現実の重みに崩れ去った。ポル・ポト政権はベトナム領土を自国領だと主張して、攻撃する。ベトナムは逆に1978年12月末に大部隊をカンボジアに侵攻させ、ポル・ポト政権を首都プノンペンから追い払った。
するとポル・ポト政権を支援してきた中国がベトナムの「侵略」を非難する。
そのころ訪米したトウ小平副首相は「ベトナムに教訓を与える」と宣言し、帰国途中の東京でも同じ宣言をして、北京に戻るやいなや、本当に大部隊をベトナム領へと侵攻させた。ベトナムはソ連に援助を仰ぎ、国内のカムラン湾などをソ連海軍の艦艇に使用させる。
日本の政界、学界、メディア界では共産主義諸国をあえて社会主義国としか呼ばず、「社会主義は平和愛好勢力」というスローガンさえ捨てていなかった向きも多かった。だがその「社会主義諸国」が非人道性、好戦性、残虐性までを行動で示すとあっては、いわゆる左翼の論理や心情は大きく崩れていった。左翼神話の崩壊だった。その動きがやがて日本の自由民主主義体制への信奉や日米同盟への支持を広める効果を生んでいったといえよう。
私はカーター政権のこの時期、ワシントンでの報道では活発に動いた。ベトナムでの知己や新たな個人的つながりから守秘義務の範囲内で政府内の動向を知らせてくれる情報源が増えたのだ。同盟国の日本の記者だからという大前提ももちろん大きかった。その結果、米中関係の正常化では「米政府が79年1月メドの方針固める」という記事を半年前に書くことができた。
ベトナム軍のカンボジア侵攻でも、ソ連軍艦のベトナム寄港でも、具体的で詳細な情報をいち早く報じることができた。米側の国家安全保障局(NSA)などが特定国の通信を傍受し、高空から衛星写真を撮るという方法で情報を収集する威力を十二分に知らされた。なにしろベトナム政府が「わが正規軍はカンボジア領内には入っていない」と否定している段階で、米国情報機関はベトナム人民軍の前線司令部とプノンペンに最初に突入した戦車部隊の隊長との交信記録をすべて入手しているのだ。
中国のベトナム侵攻でも人民解放軍の国境集結の規模や装備から、いざ進撃、そして「ランソン、カオバン両省都制圧、だが苦戦」という細部まで、米国機関の情報を教えてもらい、報じることができた。この種の情報取得も日米同盟の現実の効用のひとつだと感じたものだった。
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6008 左翼神話はどう崩壊したか 古森義久

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