<民主党岩手県連は2日、代表に小沢一郎前幹事長(衆院岩手4区)を充てる人事を正式に決めた。任期は来年春に予定される県連大会まで。
小沢氏が民主党の県連代表に就任するのは初めて。先の参院選比例代表で、県連代表の工藤堅太郎氏が落選したのを受け、県連が小沢氏に後任の代表就任を要請、小沢氏も受諾した。
県連は小沢氏をトップに据えることで、来春の統一地方選に向けて組織の引き締めを図りたい考えだ>。2010.8.2 18:44産経ニュース。
心は東京での民主党代表選挙にしかない。角栄と金丸の寵愛を肥やしにここまで来たが、鳩山にまとわりつかれて幹事長を辞任。しかし、折角辞めてやって、菅に任せたのに、菅はチョンボをやって。参院選挙惨敗。衆院は制しても参院は野党に握られるという「捩れ」状態になってしまった。
そうした展望の暗い中にあって、民主党代表の任期が切れるので、9月14日に代表選挙を行わなければならない。周辺でゴマをする連中は、この際、自身の立候補を求めているが、小澤は主に健康上の理由から躊躇している。そのさなかに岩手県連代表への就任だ。
私は政治記者の「練習」を岩手で30前の4年間やった。当時、岩手の2区には社会党から北山愛郎、ほかはすべて自民党で、小沢の父親佐重喜(さえき)、椎名悦三郎、志賀健次郎がしのぎを削っていた。
知事選挙、衆議院総選挙、参院選挙などすべてを取り仕切った。保守的と思われていた岩手の参院選挙で、社会党が勝利すると言う珍しい予測をして面白がられた。それで政治部へ呼ばれたらしい。
NHK東京・政治部へ転出したのは昭和39(1964)年7月。その後に佐重喜が死んで一郎の時代になった。しかも私の政治記者時代、一郎はペイペイだったから、これまで一度も顔を合わせたことが無い。
さきに鳩山に「抱き合い心中」で幹事長を辞めたとき、小澤は鳩と菅それぞれに敵意を持った。鳩に言われる前に辞意は固めていたので、前日、鳩に「私と一緒にやめていただくことにしました、と発表していいですか)と言われた時、軽い気持ちでOKした。
ところが鳩の科白は陰で菅と打ち合わせ済みの「謀事」とわかった。菅が首相に就任早々「小沢さんには暫く温和しくしていただく」と小沢を舐めたような科白を吐いたのには鳩とのそうした打ち合わせがあったのだ。
だから、その後、菅から面会要請があっても無視したのである。温和しくしている一党員が首相の訪問を受けるいわれは無い、と言う大義名分も立ち、菅の権威が相対的に低下すると言う効果もある。
さすが「攻め」の菅もようやく「守り」を覚えて面会要請を取り下げた。小沢の力を借りずに代表再選を果たすには、不得意の「戦略」を練る必要に気がついて「8月外遊」は中止を決めた。
対する小沢はまだ何の意思も示していない。小沢自身の立候補を周辺が求めてざわざわしているが、小澤は表立って何もしていない。しかし総理をやって身体を酷使すれば死ぬ、と主治医に言われて首相になった政治家はいまだ嘗て無かったことに鑑みれば、小沢の代表立候補は無い、と見るのが順当だろう。
立つとも、立たないとも一切沈黙を守ったまま、事態収拾に乗り出さないという「戦略」も小沢が手にする有力なカードだ。小沢の力の大きさを菅に示してさんざん苦しめた末、菅の再選を暗黙のうちに認めるのだ。
そうなれば小沢の菅に与える影は一層大きくなる。その結果、改造内閣は嘗ての中曽根内閣が田中曽根内閣になったようなことになる。
とはいえ、小沢とい人は面子は重んずるが名誉は欲しがらない人のようだ。決断の最終的なカギは「損得」である。だから結論はまだ分からない。小沢の沈黙は「真夏の夜の夢」か。(文中敬称略)
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6013 岩手県連に帰った小沢 渡部亮次郎

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