6017 政治は国民の土壌から生まれる 加瀬英明

私は今回の参院選挙で、国民がしらけていたと思う。マニフェストといって、舌足らずな外国語で呼ばれるようになった選挙公約は、不信感しか招かなかった。民主党と自民党の大政党が光彩を失い、新党にはそれぞれ魅力があったろうが、力不足だった。
 
私は国民の関心が、参院選よりも、サッカーのワールド・カップと、大相撲の賭博疑惑のほうに、集まっていたように感じた。サッカーでは、日本チームが善戦した。
このところ、日本の政治がよろめいている。それにしても、日本の民主政治は薄っぺらで、軽薄だ。
日本では、ただ、選挙の時に投票することが、民主主義だと考えられている。国民が日常生活のなかで、政治にかかわろうとすることが、まったくない。
今回の参院選挙に当たって、各党が擁立した目玉の候補者といえば、柔道の金メダルの女子オリンピック選手、プロレスラー、落語家、男女の俳優、テレビタレントといったように、いつものことだったが、まるで安直な芸能週刊誌の人気投票のようだった。
これらのスポーツ選手や、タレントたちにとって、それぞれの党の政策は、どれほどまで重要なものだったろうか。政党にとっても、知名度のあるタレント候補を利用して、権力ににじり寄ることが大切であって、政策は二の次だったろう。
政治を志す人は政党活動が必要
政党が候補者を公募することが行われるが、日本においてのみ、みられることだ。アメリカや、ヨーロッパの政党は、党員の層が厚い。党員がボランティアとして、日常の活動を支えている。党員のなかから、磨きあい、競いあって、党の候補者として選ばれる。
日本の政党は、野心にとりつかれた議員の集まりでしかないのだ。
私は候補者を公募した、いくつかの政党に、同時に応募した青年を知っている。この青年にとって、政策は二の次、三の次だった。国会議員にさえなることができれば、どの政党でもよかった。このようなことは、国民にとっても、本人にとっても、何の不思議でもないことだ。
候補者決定は地域での内部選挙を
私は松下政経塾の役員を、昨年の春までつとめた。政経塾の卒業生には、優秀な人材が多い。30人以上の国会議員を生んでいるが、その大多数が民主党に所属している。というのは、卒業生が選挙に出たくても、自民党は世襲議員や、世襲の候補者が多いことから、民主党から出ることになるのだ。
先の青年とかわらないのだ。バッジをつけたい、という一心だ。
真の民主政治を求めてこそ
日本の民主政治は、民主主義を装っているが、政策は安手な包装紙のようなものであって、政治は権力の奪い合いの場でしかない。
人の顔についていってはならない、というものの、当選を繰り返した国会議員の人相が、痴呆か、険悪なものになっている。日本人の平均的な顔ではない。そのような議員たちが発散する雰囲気が、国民の政治離れを促している。
もっとも、このような情けない政治の状況は、政治家だけでなく、日本国民がもたらしたものだ。国民に自らの手で、日本をつくろうという気概がないからだ。
相撲の世界は日本の縮図
大相撲の野球賭博疑惑に、新聞や、テレビが正義の仮面をかぶって、ことさら大きく報道したために、国民の関心が集中した。マスコミに煽られて、国民の大多数が角界のウミをだせと、憤ることになった。
いったい、いつから国民全員が、救世軍か、女子校の寄宿舎の厳しすぎる、オールドミスの舎監のようになってしまったのだろうか。
相撲は長い伝統をもった、国技である。長い歴史によって培われた、神事である。だから、大切にしなければならない。
だが、相撲はテキヤの世界に属するものだ。相撲が博打をするからといって驚くのは、マフィアが賭博をしているといって、驚くようなものだ。相撲が博打を打つことは、江戸時代から行われてきたことだ。
全国民が、深窓の令嬢が「お魚って、水のなかを泳ぐの?」と驚くように、初(う)ぶになってはなるまい。国家社会は、おとなの世界である。子どもの国になってはなるまい。
相撲は神事でありながら、テキヤの世界に属してきた。あの小さな特殊社会で、博打を常習的に行っていたといって、目くじらをたてることはあるまい。
私は角界と交流がある。相撲は守るべき伝統だ。だが、相撲は相撲なのだ。
力士が取り組みに勝って、土俵のうえで懸賞金を渡される時に、手を3つ切って受け取る。「飲む、打つ、買う」と、胸のなかでつぶやきながら、手にするといわれる。この所作も、古いものだ。
世の中の遊びは自動車のハンドルの遊びと同じ
それにしても、日本のマスコミは卑しい。私は関取とともに、以前、新聞社や、テレビ局の運動部の記者を交えて、酒を汲むことがあったが、部屋に寄ると、記者たちも花札などの博打に加わって興じていた。どの部屋にも、花札が散乱しているものだ。
それなのに、新聞や、テレビが、角界と賭博とのあいだに深い関係があったのを、いまさら発見したように、騒ぎたてることはあるまい。いつものことながら、読者や視聴者を欺いている。
博打も、相撲文化の一部だ。相撲界の賭け金は、某公党の前幹事長の不正資金疑惑にまつわる金額と較べたら、ごく小さなものだ。
マスコミに対して、腹立つことといえば、歌舞伎を神聖化するようになったことだ。
週刊誌のなかには、若い歌舞伎役者の御曹司をとりあげて、「竹の園生(そのう)」の出だと呼んでいる。「竹の園生」は皇室に対して、用いられた言葉である。
もともと、歌舞伎は下賎なものだ。だからこそ、魅力がある。
江戸時代を通じて、歌舞伎の役者は人間扱いにされなかったから、「1人、2人」ではなく、動物に見立てて、「1疋、2疋、3疋」と、数えられたものだった。
武家とその家族は、歌舞伎を観にゆくことを、禁じられていた。大金持の商家の女房たちが、歌舞伎の役者を茶屋の座敷によんで、買って情事を楽しんだ。歌舞伎役者は、今日のホストクラブのホストだったのだ。
生きる力は現実をふまえて生まれる
私は日本を無菌状態にしてしまっては、ならないと思う。かつて、〃勝新〃こと、役者の勝新太郎が麻薬を使ったといって、マスコミが大騒ぎをしたことがあった。
私はかたぎの人間がそうしたら、大きな問題だが、「役者だから、よいではないか」と、弁護した。
 
今の日本は全国民に、無菌状態を強いようとしている。無菌状態になると、人がひ弱になって、抵抗力がなくなる。
私は警察の応援団を自任しているが、つい20年ほど前までは、交番の周辺の住民が「菓子を戴いたもので」とか、「ご苦労さま」といって、冷たいスイカを数切れとか、ビールを真心をこめて、交番まで届けたものだった。
ところが、最近になって、贈賄に当たるといって禁じられた。そのために、交番が地域社会から、孤立するようになっている。
医学では、人は体のなかに常在菌といって、必要な有害な菌もあるから、健康に生きられるという。常在菌を駆除してしまったために、アトピーや、花粉症を患うようになっている。
相撲が手ぐさみに博打をしても、よいではないか。
すべての悪を駆除して、日本中が無菌状態に陥ったら、この国は偽善によって覆われることになる。活力を失うことになろう。
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コメント

  1. sada より:

    ご意見,全く同感です.民主主義には国民の責任が根本にあることが理解されていないと感じます.投票は代理人の選出ですから,議員の失敗は投票者も同様に責任を問われます.
    相撲界と歌舞伎界に関するご意見にも同様です.このような世界を許容するのが本来のこの国の様子であるにも関わらず,それを否定するシステムの導入で,そこここで矛盾が噴出しています.まだ,明治以降の外来体系の導入が途上であると感じます.

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